漆喰壁について

漆喰(しっくい)壁について

旧津金学校藤村式校舎の特徴の一つは漆喰塗りの白い壁です。漆喰とは、石灰に糊(のり)を混ぜた壁塗りの材料です。日本では古くは土蔵や城の壁に用いられていました。
現在においては漆喰塗りというと”古い”という印象を与えますが、実は漆喰は明治時代の洋風建築に見られるように日本の近代建築と深い関係があります。

漆喰とは

漆喰は、石灰に海草糊やスサ(麻の繊維や紙などを細かく切ったものまたは川砂)を混ぜてペースト状にしたものです(コテで押さえて仕上げる)。石灰はカキの貝殻などを粉にしたものを混ぜたようですが、現在の漆喰は化学糊を使いるものもあります。むかしの左官はそれぞれの材料を混ぜて漆喰を調合しました。今では全て混ざったものが売られています。
漆喰という名称は、広義には漆喰塗りや漆喰壁も含むようです。

漆喰の特質は、何といっても防火性です。それゆえ財産を守るため土蔵に使われました。漆喰はまた、湿気を吸集し調節するので季節の変化に耐え、カビがつきにくいという性質もあります。今でも押入れの壁によく使われるのはこのためです。つまり漆喰は気候が季節ごとに変化する日本にふさわしい建材なのです。そのほか遮音性や遮光性にも優れています。

逆に漆喰の短所は、乾燥後の収縮率が高いためヒビが入りやすい点です。これを防ぐために砂などのスサを混ぜたり塗り回数を多くしたりするようです。塗り回数を増やしてもできるだけ薄く仕上げるというところに腕の良い左官の技が光ります。

漆喰というと白い壁が主流ですが、白色でも仕上げのコテの使い方で荒目や凸凹を出して質感を与えることができます。これも左官の腕の見せどころでしょう。色も白ばかりでなく、灰墨を混ぜた黒漆喰や赤い顔料を混ぜた赤漆喰なども古くからありました。漆喰は顔料を混ぜることによって自由に色を出すことができることから、色鮮やかな鏝絵(こてえ)や漆喰彫刻そしてフレスコ画が建築装飾として生まれたのです。

漆喰はそれ自体が柔らかい粘土質のものなので下地に細木や竹を縦横にくくりつけます。これを木摺り(きずり)とか木舞(こまい)壁と呼びます。古い建築文化財の漆喰壁はほとんどがこのような伝統的な下地ですが、現代の住宅ではコンクリートやセメントの下地が主流のようです。漆喰は下地に中塗りや上塗りを重ね仕上げます。

以上のように、漆喰は本来は日本の気候に適した優れた建材であり職人技を要する手の込んだ壁材です。しかし、新建材の出現やコストダウン、工期短縮といった理由から伝統的な漆喰は消え、同時に優秀な左官も減ってきているというわけです。

漆喰の歴史

漆喰の歴史はとても古く、世界中で使われてきました。今から5千年前のエジプトのピラミッドの壁に使われたのが漆喰の起源のようです。古代ギリシャやローマ時代の建築物にも使われていたことはアクロポリスの神殿やポンペイの遺跡からも判明しています。これらの文明では、漆喰は絵の具を石灰に染み込ませて壁を装飾する手法が使われたようです。これが後に、イタリアルネッサンス時代のフレスコ画として確立されました。一方、アジアでは中国の万里の長城にモルタル、つまり煉瓦をつなぐ接着剤として漆喰が使われていたようです。

日本では、戦国時代に城郭(じょうかく)建築のため石灰と海草糊を混ぜて使う独自の漆喰工法が確立されました。漆喰が城に使われたのはその優れた防火性と耐久性のためです。これらの長所を生かして、江戸時代には裕福な商人屋敷の土蔵や神社仏閣に使われるようになりました。

漆喰と洋風建築

明治維新後、文明開化の旗のもと鹿鳴館を代表とする数多くの洋風建築物が造られました。建築物の洋風化はまさに日本の近代化の象徴だったのです。

当時、美術の枠でとらえていた洋風建築が日本へ移入されるにあたり、日本の伝統的漆喰塗り職人であった左官が活躍することになりました。意匠を凝らした室内装飾や天井のデザインには日本の伝統的な漆喰細工であった鏝絵(こてえ)の技術が生かされました。

鏝絵とは、漆喰を盛り上げて作った浮彫、つまりレリーフのことです。熟練した左官は自分が仕上げた漆喰壁に七福神や干支の動物など縁起の良い図柄を描きました。
左官はまた、木造建築に洋風建築を取り入れた擬洋風建築においても、本来は石や煉瓦で造られるべきアーチやコーナーストーンを漆喰で模したりしました。

擬洋風建築は和風建築と洋風建築が融合したもので、いわば日本の近代建築への過渡期に位置づけられるものです。このように、熟練した漆喰塗り職人で ある左官は日本の洋風近代建築に大きく貢献したのです。

熟練した左官の技は鏝絵や漆喰細工に見られ、その歴史は江戸時代に始まります。伝説的鏝絵師の入江長八はこの時代の左官です。彼の功績もあって、優れた漆喰細工が美術品として理解されるようになりました。しかし、昭和になって左官が減少するにつれ、鏝絵はめずらしい物になってきてしまいました。

まとめ

漆喰は土蔵建築に見られるように、本来は建築技法であったものものです。それが鏝絵(こてえ)やフレスコ画になると芸術の域にはいってきます。それゆえ漆喰は建築装飾として明治時代の洋風建築に貢献することになりました。

漆喰塗りの壁や、鏝絵を完成させる技術は日本の伝統技(わざ)、まさに左官の職人芸です。時代とともに漆喰塗りの建物が消え、それと同時に技(わざ)を極めた左官の数が減ってしまったのは何とも哀しいことです。

旧津金学校藤村式校舎(津金学校)の漆喰壁

昭和63年に復元された藤村式校舎の漆喰の壁の一部は損壊してしまいました。これは、最初小さなヒビだったところに雨水が染み込んだのが主因ですが、損壊の個所が裏の日陰の部分だったのも災いしたと思われます。



左写真のように白漆喰の下地には手の込んだ木摺り仕上げが見られます。右写真は平成12年5月に塗り直された壁です。


三井さんちのおじいちゃん: 元左官職人

地元の三井さんは元左官職人です。雨がはねてヒビ割れた資料館の表の漆喰壁を修繕してくれました。

「昔は3年も4年も奉公してタダ働きして一人前になったが、今の若い連中は見習いのときから給金もらわなきゃ仕事しねえ。」


無口なおじいちゃんがポツリとひとこと言いました。雨が跳ねて漆喰壁の下の部分が所々ヒビ割れてしまいました。本来なら全体を塗り直さなければいけないのですが、応急処置として部分的に塗っていただきました。


所々小さい部分を塗るのに数本のコテを使い分けていました。

漆喰材は現代のものを使用しましたが、「昔は石灰とノリとスサを職人が混ぜんたんじゃ。今では混ざったもんが売られているから簡単だぁ。」三井さんがおしゃいました。