藤村紫朗 Fujimura Shirou
肥後熊本藩に生まれ、尊皇攘夷・倒幕運動に身を投ずるなど維新の動乱期を生き抜き、維新後の明治6年(1873)〜明治20年(1887)の14年間は山梨県の県令(知事職)をつとめた。
任期中に産業・土木・教育政策をおし進め、山梨の近代化に貢献した。産業分野では県営の官業製糸場や官業試験場を建設し、当時輸出産業の中心であった蚕糸業を全国トップレベルに押し上げた。土木事業では甲州街道と青梅街道を改修して道路網を整備し『道路県令』と揶揄された。教育では各地に藤村式建築と呼ばれる洋風の小学校校舎の建設を奨励した。洋風校舎は文明開化を視覚的に印象付けるもので、近代化の象徴でもあった。
しかし、藤村が押し進めた土木事業や学校の建設事業ははじめから困難を伴うものだった。当時の中央政府には地方の公共事業に対する補助金を出すだけの財源が十分なかったため、藤村の事業は地元町村費や寄付金に頼らざるを得なかった。
藤村のそのあまりに強い熱意は、財あるものは財を提供し、財無き者は力を提供するようにと、はたまた、断髪をして床屋にかけるお金を学校設立資金に充てるようにとまで奨励したという。そして次第に県民の間から県令に対する不満や批判が出るようになる。天災や不景気が県民の生活を圧迫したのも藤村にとっては不運であった。一時は山梨への永住も希望していた藤村だが、明治20年に愛媛県への転任命令に従って山梨を去った。これは左遷との見方もある。
藤村紫朗経歴
- 1845年(弘化2年)3月1日、肥後熊本藩に生まれる。藩士黒瀬市左衛門の次男。
- 1858年(安政5年)熊本藩士菅野太平の養子になり名前を嘉右衛門と改める。脱藩し尊王攘夷運動に加わる。明治維新を期に藤村に姓を改める。
- 明治元年(1868)内局事務局権判事。戊辰戦争へ出陣する。
- 明治4年11月(1871)大阪府参事。
- 明治6年1月(1873)山梨県第5代県令として着任。翌年11月に県令に昇任。19年山梨県知事と改称(知事としては初代になる)。
- 明治7年(1874) 県営勧業製糸場が完成。
- 明治13年(1880) 政府は土木費の国庫補助金を全廃。
- 明治20年3月(1887) 愛媛県知事へ転任(22年2月まで)。
- 明治23年(1890)貴族院議員に選任される。
- 明治29年(1896) 男爵の称号を授かる。
- 明治41年(1908) 1月4日63歳で死去。
参考文献:植松光宏 『山梨の洋風建築』 甲陽書房 昭和52年
有泉貞夫 『山梨の近代』 山梨ふるさと文庫 平成13年2月