用語集
むずかしい単語 -特に天皇をうやまって使われた言葉-
- 平癒(へいゆ)
- 病気やケガが治ること。
- 御真影(ごしんえい)
- 天皇・皇后の写真。宮内省から各学校に下付(かふ)された(つまり、わたされた)。宮内省は皇室や天皇に関する事務をとりあつかった役所のこと、現在は宮内庁。
- 安置所
- 神仏の像や遺骨・位牌(いはい)などをそなえ置いて祭る部屋。特に天皇皇后の写真をまつった部屋を奉安殿(ほうあんでん)と言う。
- 涵養(かんよう)
- 少しずつ養い育てること。
- 下賜(かし)
- 位の高い人が下の者に物を与えること。
- 奉読(ほうどく)
- つつしんで読むこと。
- 崩御(ほうぎょ)
- 天皇や皇后の死去を敬って言う言葉。
- 大喪(たいそう・たいも)
- 亡くなった天皇の葬儀。
- 遥拝(ようはい)
- はるか遠いところからおがむこと。
- 大典(たいてん)
- 重大な儀式。
- 謄本(とうほん)
- 原文をそのまま全部写して作った文書。
- 令旨(りょうし・れいし)
- 皇太子、親王の命令を伝える文書。
- 簡閲点呼(かんえつてんこ)
- 軍隊で兵を集めて一人一人名前を呼んで調べること。
- 奉遷(ほうせん)
- 神体などを移すこと。
- 御不例(ごふれい)
- 高貴の人が病気になること。
- 奉弔式(ほうちょうしき)
- 天皇の死をとむらい祈る式典。つまりお葬式。
- 大礼(たいれい)
- 即位、皇太子が天皇の位につく儀式。
- 訓話(くんわ)
- 教えさとすこと。
- 詔書(しょうしょ)
- 天皇の文書。
- 玉音放送(ぎょくおんほうそう)
- 玉音は天皇の声。昭和天皇が国民に戦争の終結を発表した。
- 終戦の大詔(たいしょう)
- 大詔は詔(みことのり)、つまり天皇のことば。
- 煥発(かんぱつ)
- 広く世の中に告げて発表すること。
- 奉還(ほうかん)
- お返しすること。
教育関連事項
出来事
- 徴兵令
- 身分に関わりなく満20才以上の男子に兵役義務が課された。これによって「富国強兵」をかかげていた明治政府は近代的な軍隊の整備を具体的に押し進めることになった。明治22年(1889)の大改定では国民皆兵主義、つまり国民の兵隊化が徹底され、陸海軍の統帥機構が整備された。
- 西南戦争
- 明治10年(1877)に起きた明治政府に対する不平士族の反乱。反乱軍は明治維新の功労者であった西郷隆盛に率いられた鹿児島県士族。西郷隆盛は反乱の前、明治6年に、自らが唱えた征韓論が議会で拒否されすでに陸軍大将を退官していた。反乱軍は九州各地で政府軍と戦ったが、ついに政府軍の反撃にあって破れ、西郷は自ら命を絶つ。以後、明治政府は徴兵令を順次改訂し国軍を整備し軍国化への道を歩む。
- 大津事件
- 湘南事件とも言う。明治24年(1891)5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(後のニコライ2世)が滋賀県大津市で警戒中の巡査津田三蔵に切りつけられ負傷した事件。当時、ロシアは朝鮮へ進出していた列強の一国で日本にとっては脅威の的であった。ロシアの報復を恐れた日本側は, 明治天皇が負傷したロシア皇太子を見舞いに出向くなどして特別の措置をとった。しかし、この後、日本は日清戦争(下記)の勝利と日英同盟(1902)の締結を踏まえロシアと衝突することになる。
- 日清戦争
- 1894〜95年に日本が清(中国)と戦った戦争。1894年(明治27)3月、朝鮮で東学党農民が反乱起こすと朝鮮政府は清国に応援を要請。しかし、6月、日本政府はこれを無視して出兵を決定。反乱自体は外国の介入を恐れた東学党軍が朝鮮政府と和解して収束する。当初は在留邦人の保護が目的であったが、反乱が治まったにもかかわらず日本は派兵にこだわる。7月、派兵の目的がはっきりしないまま日本は清と戦争に突入。近代的軍隊をもった日本が始めて大国と戦った戦争であり、当時は全国各地で戦勝祈願祭が行なわれたり軍歌も流行して愛国思想が高まった。戦争は日本の勝利に終り、1895年(明治28)4月、下関で日本に有利な講和条約を結び、遼東半島・台湾の割譲、朝鮮の独立などを手に入れた。しかし、朝鮮への日本の進出にはロシア、ドイツ、フランスなどの欧州列強が懸念を示し、日本には屈辱的な後の三国干渉へとつながる。
- 東学党
- 19世紀に起きた朝鮮の民族的宗教。土着宗教に儒教・仏教・道教を取り入れ、西洋文化やキリスト教を排斥した。
- 三国干渉
- 1895年独仏露の三国の要求に応じて遼東半島を返還する。しかし、結果的に三国干渉は日本に軍事力強化の必要性を再認識させることになった。
- 日露戦争
- 1904〜5年に日本がロシアと戦った戦争。日清戦争に破れた清(中国大陸)には列強が進出し、義和団事件を経てますます中国に対する欧米列強の圧力が強まった。満州ではロシアが兵を駐留させ満州の占領を既成事実化させた。1902年、日本は、ロシアの南下を懸念していたイギリスと同盟を組みロシアとの対決を準備した。ついに1904年(明治37年)2月、日本はロシアに宣戦布告して戦争に突入した。日本は苦しいなか戦況を有利に進めたが、戦争の長期化は不利と見てアメリカのルーズベルト大統領に講和の仲介を依頼し、結局1905年9月にロシアとポーツマス条約を結んだ。条約によって日本は韓国における日本の支配権と樺太の半分を手に入れた。戦争中、国内の各学校では開戦の勅語の奉読式が行なわれたり、授業で軍国美談を教材に取り入たりして軍国主義思想が培われていった。
- 義和団
- 列強の中国進出に反発した白漣教徒の自衛団(義和団)が山東省で蜂起し、その後各地で排斥運動を展開した。
- 義和団事件
- 1900年、義和団は北京の外国公使館区域を包囲した。これに対し日本・イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリアの8ヶ国は連合軍を組織して出兵し義和団を鎮圧した。日本では北清事変とも呼ばれる。
- 日英同盟
- 明治35年(1902)に日本がイギリスと結んだ軍事的同盟。南下政策を進めるロシアに対抗するという日本の意図と、ロシアのアジアにおける勢力拡大に歯止めを掛けたいというイギリスの思惑とが一致した。1922年に廃棄。
- 旅順陥落
- 旅順は遼東半島の先端にある港で中国大陸への重要な入口。日露戦争の中で重要な戦いの場所になった。日本軍は乃木大将の指令のもと多大な損失を出しながらも勝利を収めた。ポーツマス条約によって日本が旅順を租借できることを認められ、日本の中国大陸進出への足がかりとなった。
- ハルピン
- 中国東北部にある商工業の中心都市。1909年、韓国統監だった伊藤博文は韓国の独立運動家の安重根にハルビンで暗殺された。
- 韓国併合
- 日露戦争のあと、日本は韓国を保護国として統監をおき植民地化していった。韓国国内では日本に対する抵抗運動が広まり、伊藤博文の暗殺事件なども起きた。1910年(明治43)日本は韓国を併合して朝鮮総監府をおいて支配することになった。
- 第1次世界大戦
- 大正3年(1914)6月、民族問題をかかえるバルカン半島のサラエボでセルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を殺害した事件を発端にヨーロッパで第1次世界大戦が始まると日英同盟を理由に日本はドイツに対して宣戦布告した。当時、ドイツは中国大陸や太平洋南洋諸島に進出していたのである。日本は10月にドイツ領南洋諸島を占領し、続いて11月に山東半島にある青島(チンタオ)を占領した。日本海軍の一部はインド洋や地中海まで進出したという記録もある。
- 第1次世界大戦
- 三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)の対立。サラエボ事件でオーストリアはセルビアに宣戦、セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが協商国と開戦。同盟側にトルコとブルガリアが参戦し、協商側に日米中などが加わって世界的規模の戦争に発展。1919年(大正8)ベルサイユ条約を締結して終る。
- 21ヶ条要求
- 1914年(大正4)1月18日、日本政府(大隈内閣)は袁世凱(えんせいがい)政権に中国の植民地化を図る対華21ヶ条要求をつきつけた。当時、中国では辛亥革命で清帝国が倒され中華民国が誕生していたが、政権は不安定だった。結局、大総統の袁世凱は日本の最後通牒に屈服して要求をのんだ。これによって反日本運動が高まることになる。
- 袁世凱
- 中国の政治家。1911年(明治44)10月の辛亥革命によって清帝国が崩壊すると、共和制の中華民国が誕生。初代(臨時)大総統は孫文だったが、軍閥の袁世凱に弾圧され日本に亡命。袁世凱が12年に大総統になる。15年には帝位についたが反帝制運動が起こって失脚。
- シベリア出兵
- 1917年(大正6)11月、ロシア革命が起こると、ロシア国内でチェコスロバキア軍が革命政権に対して反乱を起こした。日本は、翌年8月、チェコ軍救援の名目のもとにアメリカ・イギリス・フランス・イタリアなどと共にロシア革命に対する干渉を目的としてシベリアに出兵した。1920年夏頃にはチェコ軍も救出され各国の軍隊は撤退をしたが、日本軍は戦争目的があいまいなままさらに駐留を続けた。単独となった日本軍はパルチザン(革命派人民部隊)の激しい抵抗にあい不利な状況に追い込まれ、ついに1922年10月に撤兵をした。
- ロシア革命
- 1917年3月(ロシア暦2月)、労働者が蜂起してロマノフ王朝を打倒し臨時政府が成立(2月革命)。11月(同10月)にはレーニンが指導するボリシェビキが武装蜂起してソビエト政権を樹立、世界ではじめて社会主義政権が誕生(10月革命)。
- 関東大震災
- 大正11年(1923)9月1日午前11時58分に発生した関東地方を中心する大地震。マグニチュード7.9の大激震は大きな被害をもたらした。特に火災は3日間続き、流言も飛び交う大混乱となった。関東一円での死者は91344人にのぼった。9月1日は現在「防災の日」に定められている。
- 金融恐慌
- 第1次世界大戦中以来、好況に沸いていた日本経済は1920年(大正9)3月に株価が暴落してから不況に転じた特に23年の関東大震災は日本経済に大打撃を加えることになった。大震災によって決済不能になった手形を政府が補償することになったが、震災手形の処理はなかなか進まなかった。1927年3月、震災手形問題をめぐって大蔵大臣が失言し、それをきっかけに多数の預金者が銀行に殺到し取り付け騒ぎが起こり銀行が相次いで休業するに至った。企業の破産・休業が続発。この金融恐慌は一時鎮静化するが、結果的に財閥の支配力が強まりことになった。1929年10月にアメリカで始まった世界恐慌がこれに追い打ちを掛け、日本の国際収支は悪化し、金の大量国外流出、賃金カット、失業者の増大など日本経済は昭和恐慌に見舞われた。
- 満州事変
- 1931年(昭和6)9月18日、南満州鉄道の線路が爆破された。爆破は満州に駐屯していた日本陸軍部隊(関東軍)の自らの策略であったが、これを中国側の仕業として関東軍は中国東北部へ侵略を進めていった。1932年3月、関東軍が後ろ盾となって溥儀を(ふぎ)をたてて満州国の建国を宣言させた。これに対して中国は国際連盟において日本の武力侵略を訴えた。事実上の日本の満州占領に対する国際的非難が高まる中、国際連盟はリットン調査団を満州に派遣し日本軍の撤退を勧告する報告書を発表。1933年3月、日本は連盟を脱退し、国際的に孤立化への道をたどることとなった。
- 2.26事件
- 1936年(昭和11)2月26日に起きた陸軍青年将校たちによる反乱。26日の早朝、21人の反乱将校達に率いられた歩兵連隊が総理大臣邸などを襲った。反乱軍は一時永田町一帯を占拠し東京には戒厳令が敷かれた。高橋是清大蔵大臣や斉藤実内務大臣などが殺傷された。天皇の鎮圧命令がでて反乱軍は軍へ復帰し4日間で反乱は終ったが、事件は当時マスコミによる報道が禁止され、秘密裁判によって関係した将校ら17名が死刑宣告を受けた。この事件後、陸軍は軍内を粛清する一方で、閣僚人事に介入するなど政治に対する発言力を強めていった。
- 盧溝橋事件
- 日中全面戦争のきっかけとなった事件。1937年(昭和12)7月7日夜,北京校外の盧溝橋付近で演習中の日本軍に対して発砲される事件が起きた。これを口実に日本軍は翌日中国軍を攻撃し、日中両軍の武力衝突が北京や上海で始まった。
- 天皇人間宣言
- 太平洋(大東亜)戦争後の改革の一つ。天皇の神格否定宣言。 1946年(昭和21)1月1日、天皇は「神様ではなくて、国民との間は敬愛の念によって結ばれている」ことを詔書で明らかにされた。明治時代以来、天皇は神聖不可侵とされていたが、この宣言以後天皇は国民統合の象徴と憲法で定められた。
- 朝鮮戦争
- 1950年(昭和25)6月から1953年7月に起きた大韓民国(現韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の戦争。朝鮮動乱とも言う。1948年以来、朝鮮半島は米ソ冷戦の最前線となっていた。北緯38度線を挟んでソ連を後ろ盾とした北朝鮮とアメリカの支持する韓国が対峙していた。1950年6月に北朝鮮軍は韓国へ侵攻、一時はソウルを占領したが、アメリカを主体とした国連軍が韓国を支援して参戦し中国国境付近まで押し返した。これに対抗して中国軍が北朝鮮を支援して参戦して第3次世界大戦勃発の危機にまで発展した。1951年7月に休戦会談が始まり、1953年に休戦協定が成立、現在に至る。
- 日米安全保障条約
- 日米両国の安全と防衛に関して取り決められた条約。1951年(昭和26)に結ばれた連合国諸国と日本との平和条約と同時に締結され、1952年4月に発動された。1960年(昭和35)に改定され、1970年からは1年ごとの自動継続となった。この条約によって日本は自由主義陣営に加わり、アメリカとの協力体制の下に東アジアの国際秩序の一環を担うことになった。
参考資料
「20世紀フォトドキュメント 第1巻 政治・経済」 1992年 ぎょうせい 東京
「20世紀フォトドキュメント 第4巻 教育」 1991年 ぎょうせい 東京
「20世紀フォトドキュメント 第10巻 戦争の記録」 1992年 ぎょうせい 東京
「大津事件と日本のマスメディア」 慶應義塾大学法学部政治学科玉井研究会のホームページ