天正壬午の乱
てんしょうじんごの乱 北条氏vs.徳川氏 天正10年(1582)7月〜10月末

■武田氏の終焉
戦国時代、甲斐武田氏は中部・駿河地方の大部分の覇権を握っていたが、天正元年4月に信玄が病死すると、甲斐の地は近隣の武将たちの侵略の的となった。信玄を継いだ勝頼は天正3年5月の長篠の戦いで徳川家康・織田信長連合軍に大敗すると甲斐に戻って態勢の立て直しをはかった。信濃方面から織田軍、駿河方面から徳川軍、そして関東方面から北条軍から甲斐に攻め入る勢いであった。そこで勝頼は韮崎に近い新府へ城を移して(同9年)防衛態勢を整えた。しかし、勝頼の義弟の木曽義昌が信長に寝返ると態勢は一気に織田・徳川・北条軍に有利となった。次々と他の家臣達も織田軍へ寝返り信濃は戦わずして織田の勢力下に陥った。織田軍が諏訪方面から国内に迫ってくると勝頼は自ら新府城に火を放って(同年3月3日)岩殿城(大月市)へ向け背走した。しかし、笹子峠で背反した家臣の小山田信茂に阻まれ、ついに天正9年3月11日、勝頼は自害してここに武田家が滅亡した。

■天正壬午の乱の始まり
その後甲斐は一時、織田家臣の河尻秀隆に治められたが、天正10年6月2日京都の本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に殺されると、北条氏と徳川氏が旧武田領(主に甲斐と信濃)をめぐって争うことになった。これが天正壬午の乱である。北条軍二万は若神子に陣を張り、一方家康は新府城に本陣を張って双方が向い合う状態になった。この時、津金衆をはじめとする武田の旧家臣たちは家康側についた。

■北条vs徳川
防御を固めていた徳川軍を攻めきれない北条軍は富士山に近い御坂城から甲府を攻め、南北から徳川を挟み撃ちにする作戦に出たが、黒駒の合戦で北条軍は大敗し、逆に徳川軍は信濃側から北条の補給路を断ち態勢が逆転し始めた。

■家康の天下
80日あまりの膠着状態の末、北条氏直が徳川方に和ぼくを申し出て撤退。甲斐と信濃は家康の所領となり、家康の天下制覇への道が開かれることになった。

 
若神子城址遠景
若神子城
甲斐源氏の祖である源義光(みなもとのよしみつ)伝承の城。戦国時代には武田軍が諏訪侵攻のおりに宿営した記録がある。天正壬午の乱では北条氏の軍勢が陣を張った。現在古城跡は公園として整備され烽火(のろし)台が復元されている。発掘調査では薬研堀や箱堀などが発見されたが、これらは義光の時代のものではなく天正年代のものと思われる。
獅子吼城画像
獅子吼城
獅子吼城(ししくじょう)は塩川沿いにある標高793mの「江草富士」とも呼ばれる円錐形の城山である。北条軍がここに立てこもったが、徳川方の服部半蔵率いる伊賀組と旧武田家の家臣であった津金衆や小尾衆らの夜襲によって攻め落とされた。
大豆生田付近画像
大豆生田砦趾
(中央自動車動須玉インター付近)
資料 図説 韮崎・巨摩の歴史』 郷土出版社 2000
『日本城郭大系第8巻 長野・山梨』 創史社編 1980


(c)津金学校