須玉の文化財
製作者:須玉歴史資料館 〒407ー0023 山梨県北杜須玉町下津金2963
電話 (0551) 20-7100
FAX  (0551) 20-7105

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「のろしの里・すたま」歴史文化公園
昭和59年に「やまなしの歴史文化公園に関する条例」が制定され、郷土の歴史的文化遺産や周囲の自然、景観を守り育て、後世に継承するため公園化事業が始まりました。
平成10年1月29日に須玉町の文化財は24番目の「やまなしの歴史文化公園」に登録されました。
公園エリアには旧津金学校(須玉町歴史資料館)、海岸寺、源太ヶ城、若神子(わかみこ)城、正覚寺、獅子吼(ししく)城、小尾番所跡、馬場の口留番所、題目大宝塔、増富金山、みずがき山、増富温泉郷、神部神社、日影のトチノキ、比志神社のエゾエノキ、根古屋神社の大ケヤキ、諏訪神社のヒメバラモミ、遠照寺(おんしょうじ)のアカマツ、大豆生田(まみょうだ)のヒイラギ、水上写真館が含まれています。


各地区については須玉町の地図を参照して下さい。
最終更新日 2002年2月21日 
須玉町の史跡

地区

史 跡 名

指定

内容

若神子

新羅三郎義光公菩提寺
‐正 覚 寺‐

(しょうかくじ)

 

1127年、甲斐源氏の始祖である義光公の菩提を弔うためにその子義清によって創立された菩提寺です。当初は天台宗のお寺で、高根町にありましたが1430年に甲斐源氏の館跡である現在地に移転し曹洞宗に改宗しました。場所は中央自動車道須玉バイパスから国道141号を清里方面に上ってすぐ左側に見えます。

穂足

修験者山伏順光の墓

 

順光は武田時代の山伏として多いに権勢をきわめ藤田村に居住していました。彼の墓は五輪塔で、現在の藤田(とうだ)山伏田という地名になっています。高さ1.2メートルm。

穂足

竺非一の塔

 

竺非一は出雲の出身の雲水(修行僧)でした。天保初年に大蔵少林寺の留守僧になりました。博学多芸の人で狂歌狂句に秀でて世を風刺しました。また、私塾を開き近郷の子弟を教育し、教え子は二百名以上にのぼったといわれています。八十余才で病死しましたが生前に門弟たちが頌徳碑を藤田顕光寺境内に建てました。
郷土の画家三枝雲岱は竺非一の門弟でした。

穂足

下馬碑

 

大蔵三島神社境内にある高さ1m30cmほどの自然石には「下馬」と彫られています。武田信虎が佐久攻略のときに三島神社に先勝を祈願し、のちに戦勝記念に建立したものと伝えられています。

穂足

大豆生田の砦

 

島崎の城ともいいます。場所は塩川と須玉川の合流点近くの丘陵地で、天正壬午(1582年)八月に北条氏直が築いた砦です。この時北条勢は若神子城に本陣をかまえ徳川家康の軍と対陣しました。

若神子

若神子城趾
(ふるさと公園)

甲斐源氏の祖である源義光の伝承を持つ県下唯一の城で、連郭式という中世の古い形式を持つものです。古城(大城)の南北にそれぞれ北城と南城があったことが判っています。
古城跡は公園として整備され烽火台が復元されています。
武田信玄はたびたび若神子城で陣立てを行いました。若神子を起点とする上の棒道もこの城域を通過するなど重要な城でした。
発掘調査では薬研堀や箱堀などが発見されましたが、これらは義光の時代のものではなく後の天正年代に北条氏の軍勢が陣を張った時のものと思われます。

津金

古宮城址
(ふるみやじょう)

 

須玉町歴史資料館のすぐ裏手、現在は諏訪神社になっています。
源清光がここに館を築き、大泉村の谷戸城に居館を移すまで津金にいたと伝えられたことから「御所」の地名が付けられたといわれています。清光の移住後に「古御屋(ふるみや)」と呼ばれるようになったとの説があります。この古宮の地には武田信虎も居城したといわれ、また、武田氏に仕えた津金衆の居館だとの説もあります。
戦国時代頃と推定される空堀跡が旧大正校舎(現大正館)の敷地を南北に走っていることが平成9年の発掘調査でわかりました。

江草

獅子吼城址
(ししくじょう)

塩川の東岸にあるけわしい山に石塁が残っています。ここは武田家の系で安芸守信光の三男である江草兵庫助信泰が居館したといわれています。信泰は甲斐国内の動乱にて失脚し出家して高野山に移り住んだと高野山の記録にあります。
武田没後、天正壬午の年に北条の奇兵がここに砦を築いて若神子本陣の羽翼となりましたが徳川に内応した小尾、津金、小池の党に襲撃されその手に帰したのでした。その結果戦いは徳川に有利になったそうです。

多麻

三枝土佐守昌吉の墓
(さえぐさとさのかみ)

 

甲斐における三枝氏(さえぐさし)は武田氏よリもはるかに古く、大和代から平安鎌倉にいたりかなりの勢力を持った豪族でした。昌吉は武田信玄に仕え、勝頼滅亡の後は徳川家康に仕えて戦国の世を各所に転戦して殊勲を立て、東向(ひがしむき)の地を支配することとなりました。寛永元年6月9日に死去し東向の信光寺に葬られました。

津金

津金美濃守の墓

 

津金氏は新羅三郎義光の子義業(佐竹氏)を祖としています。津金胤義の時武田信昌に仕え、その子胤秀が地名を氏とし津金衆と呼ばれる武士団をつくりました。領地は北佐久郡までに及んでいました。美濃守の墓は下津金にある東泉院に献立されています。

江草

江草の三関

 

『甲斐国志』には巖下、馬場、根仮屋と記されています。岩下と馬場は今は畑に、根古屋は宅地になっています。武田時代の口留番所ですが、徳川時代から明治初年まで村役が警備にあったていました。

増富

小尾番所址

 

旧小尾村黒森(現在は増富地区黒森)は古くから信濃への重要な交通路でした。武田氏の頃に関所がおかれ軍事・行政両面から重要視されていました。徳川時代の甲州留番所二十五ヶ所の一つで、当時は府中から任命された地域住民が警備にあたっていました。現在は信州峠(海抜1460m)へ続く道として整備されています 。

増富

金山平の金鉱
(かなやまだいら)

 

武田氏が甲州金を鋳るために数千人の人夫を送り込み採掘させたといわれ、当時この地には金山千軒(かなやませんげん)と呼ばれるほどにぎやかな村だったそうです。日本版ゴールドラッシュですね。

増富

比志城址 中世の山城で、遺構は山頂の広くて平坦な主郭と、その西に続く西郭、そしてその南に伸びる尾根から構成されています。この城は、比志神社地であることから神社との関連が強いと思われます。比志神社には大永8年(1528)日向大和守是吉の造営棟札があることから、中世豪族の社会構造を考えるうえでもこの城の重要性が伺えます。

江草

大渡の烽火台 中世の烽火(のろし)台で、交通の要衝でもある鳥居峠を守る、城の役目もあったと思われます。頂上の主郭を中心に鳥居峠側に数段の帯郭が配置されています。『甲斐国志』にも記載のある代表的な烽火台です。

津金

源太ヶ城址 甲斐源氏の祖である新羅三郎義光の孫にあたる逸見冠者の黒源太清光が築城したと伝えられる中世の山城で、遺構が良好に残っています。双峰の山を利用した郭配置は珍しく、頂上にはそれぞれ平坦で広い郭を持ち、斜面に帯郭をたくみに配置した構造をしています。


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建造物

地区

名 称

指定

内容

増富

比志神社本殿付棟札

室町時代(1528年)に建立された本殿の棟札が修理時のもあわせて7枚あります。本殿の材料は木曽から採られたものです。

増富

神部神社の本殿

 

当社は旧小尾(御門、神戸、塩川、東小尾、和田、黒森)の総鎮守として延喜式に記載されています。創立は文武天皇の大宝元年三月十五日で前記四柱を祭っています。社名も蔵王大権現、神門社と変わったことがありますが維新後旧名に復しました。
神道伝説では、当小尾地内は日本武尊が東征の折、酒折を越えて信州に至るに黒平から木賊峠を経て現在の東小尾で湯治し当社前を通ったとされ、東小尾で猛獣、毒蛇を射ったので破魔弓場(浜井場)の地名としたといわれています。神部神社には慶長年間より筒粥鳥追式及各巻の産土神の神事斉神の祭り等が伝え受けつがれています。棟札は県の文化財に指定されています。

津金

海岸寺の観音堂

桁行約10.9メートル、梁行9.21メートルの入母屋作りで向拝付茅葺きの建物です。棟梁の立川和四郎富昌らによって1845年着工、約20年の歳月を費やして竣工されました。その特色は細部が優れた彫刻によって満たされ、且つ全体的な均衡の保たれた点にあります。わけても正面の中庸に付された粟とウズラ(鶉)の彫刻はその最たるもので、富昌の芸術的才能を余す所なく発揮した名作として日本の木彫史をかざる江戸時代の代表的な彫物の一つとしても貴重なものでもあります。

増富

金峰山大石神社

 

正しくは里宮大権現神社といいます。奥の院金峰山神を此処に奉遷したものである奥の院は昔より女人の参詣を許さず、また老人は登山しがたかったので此処に遷座して老若男女の参詣を許したそうです。尚、登山者は此処にて身体の祓をすることを例としました。又境内に(おこりの病)に呑めばよくきく湧水があったといいます。

多麻

信光寺の総門

 

武田信光は班山麓に真言宗良立山金剛寺を開基しました。そして284年後に改宗されて曹洞宗金龍山信光寺となりました。
寛永十五年(1638)三枝伊豆守源守晶は現在の地に七堂伽監を建立して寄進しました。信光寺総門はこの時建てられたもので年代的にも貴重なものです。
その後嘉永二年に修理がされています。「塩川禅林」の額はこの修理の時掲げたものです。形式は薬医門で鎌倉の末期から室町の初期の武家又は公家の屋敷に現れた門形式で後になって城郭社寺にも使われるようになりました。
この門の太い柱、重厚な屋根、その造りの大きさと風格に心をうたれるものであります。箱棟に見る武田と三枝の紋章がまたこの寺の由来を物語っています。

増富

岩屋堂

 

岩屋堂の御本尊は如意輪観音で北巨摩の百観音霊場の塩川筋第一番の霊場です。往時は近郷の住民の尊信厚く春の縁日には遠く信州川上村方面からも参拝するものが多く、種々の売店が出て終日参拝者でにぎわっていました。今は高須林道の沿線になり風景をめでて通る人はありますが此所を訪れる人は少なく岩屋堂内に仏像のみ静かに鎮座しております。

若神子

三輪神社御神体

 

40センチメートルばかりの石柱で、下は穴に挿しこむような突起があります。石柱の表の上部に日月の印とその下に逸見総鎮守、三輪神社、永年二年午(1114)と刻まれています。この御神体は境内にある牛石の頭にある穴に立てて、社前を通る旅人が道中の無事を願い拝んだと伝えられています。

江草

十五所神社棟札4枚 永正10年(1513)の棟札は、当初の棟札とそれを忠実に写した棟札の2枚あります。これらの棟札には当時の庄名や郷名、人名が記述されていて当時の様子をうかがえる歴史資料として非常に価値があります。あとの2枚は正徳2年(1712)と文化7年(1810)の棟札で、年代がやや新しいものの貴重なものです。

江草

馬場の口留番所 口留番所とは、国境付近など重要な場所に置かれた関所で、須玉町には馬場(ばんば)のほか根古屋、岩下、小尾に置かれていて、明治初年に番所制度が廃止されるまで村役のもとで管理されていました。建物が残っているものとしては県下で唯一もので、貴重です。また、番所の門は明野村勝永寺の山門として移築されています。
津金 旧津金学校校舎 明治8年10月21日に落成された擬洋風建築の校舎。木造二階建(一部3階)、建築面積237平方メートル、寄棟造、桟瓦葺(さんがわらぶき)です。屋根の中央には塔屋(太鼓楼)が付いています。県内では藤村(ふじむら)式建築と呼ばれ、設計者は藤村式建築の多くを手掛けた小宮山弥太郎です 。
穂足 水上写真館  


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石造文化財

地区

名 称

指定

内容

若神子

平賀源心の墓

 

天文5年(1536)12月27日、武田晴信(後の信玄)が海ノ口にて源心を討ち取り、父信虎に初陣の功を報告したが信虎快く思わずつい途中若神子のこの地に源心の首を埋めてしまったと伝えられています。この伝説の真偽には賛否両論があります。

若神子

味噌なめ地蔵

 

高さ1.7メートル。この地蔵には諸説があって、信玄が川中島からこの地蔵を甲州に移そうとして地蔵の体に縄をかけてひいてきたが正覚寺前まで来てどうしても動かないのでここに安置したと伝えられていたり、別の言い伝えでは信玄が信濃攻略のため大門峠を越えようとしたとき目の眩むような光る石像があってどうしても兵を進めることができず、やむをえず縄をかけてここまで引いてきたという。そのためこの地蔵を放光地蔵、放光坊ともいいます。地蔵の背には縄のあとと言われる窪みがあります。いずれにしろ、自分の患部と同じ部分に味噌を塗りつけて祈願すると病気が治るといわれ今でも地蔵の体のあちこちに味噌が塗られ供物が絶えません。

若神子

長泉寺の名号板碑

文安三年(1446年)4月15日に建造された供養塔です。高さ2.7メートルの安山岩製のもので方形に近い分厚な側面をもち、正面に南無阿弥陀仏を大書、観音と勢至の両脇侍を左右の側面に現したものです。長泉寺は県かでは数少ない時宗の寺なので時宗系の板碑として貴重な歴史資料です。時宗とは一遍上人が開いた日本浄土教の一派で阿弥陀経を拠所にしています。本山は藤沢市にある清浄光寺(しょうじょうこうじ)です。

若神子

三輪神社の六地蔵幢

室町時代(1435年)に建立された高さ2.4メートルの石幢。笠の下に六地蔵が配されています。幢身の曲線や細部の造りは大陸の建築文化の一端がうかがえます。

増富

増富和田の五輪塔

五輪塔は平安後期以来石塔の主流として流行った密教系の宝塔です。形は漫画「おそ松くん」のハタ坊が持っている串刺しのおでんを想像してください(知らない人は若いということです)。細かくは方形の地輪、球形の水輪、三角の火輪、半月形の風輪、団形の空輪から成っています。東西南北の梵字も正確です。この和田の五輪塔は国司級か地頭級の墓で鎌倉時代中末期のものと思われます。空風火水地の五輪とも整っている貴重な宝塔です。

若神子

二日市場の六角石憧

室町時代、応永元年(1394)に造られた単制の石幢。幢身に願主藤原宗信の名が見えるが今では風化していて明瞭ではありません。

穂足

題目大宝塔

 

御題目石(おだいもくいし)ともいいます。高さ9メートル、幅は約4.5メートルの自然石に「南無妙法蓮華経」と彫られています。彫られた文字の中に一俵の米が入ると言われています。嘉永六年(1853)、あたかも黒船の来航の頃、天下泰平国家安寧(あんのん)を願って近在の信者たちが建立しました。

津金

海岸寺の石仏

長野県高遠の石仏師守屋貞次(もりやさだじ1765−1832)が十余年の歳月をかけて西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の百番札所の観音像を彫ったものです。海岸寺は津金にある臨済宗のお寺です。

江草

十王の石像

 

江戸時代中期に作られた十王の石像。十王全てがそろっています。十王とは日本各地に古くから伝わっていた十王信仰に基づくもので、人は死後三年間に十人の王に現世の罪を問われて来世の運命を決定されると言われています。そのうちの一人が閻魔(えんま)王で、その他に秦広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王がいます。生前にこれらの十王に供養をしておくと罪が軽くなると信じられていました。

津金 下原道祖神の石祠
(せきし)
石祠は石で造られた家屋形の石造物のことです。一般には祠(ほこら)とも呼ばれます。下原道祖神の石祠は町内に数多くある石祠の中でも規模と装飾ともに優れています。石祠信仰はもともと石祠が置かれている大きな石(土台)が信仰の対象であったと考えられています。
津金 海岸寺6地蔵板碑  


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天然記念物

地区

名 称

指定

内容

江草

根古屋神社の
大ケヤキ

樹齢千年余りの2本のケヤキの木、地元では俗に田木畑木と呼ばれ農作物の豊凶を占うのに役立いました。田槻(タツキ:ツキはケヤキのこと、別名男木)の萌芽が早ければその年の稲作養蚕が豊かになり、畑槻(女木)の萌芽が先ならば畑作が良いと信じられていました。

増富

比志神社の大杉

根回り11メートル、高さ33メートルの杉の巨木。

若神子

遠照(おんしょう)寺
アカマツ

日蓮宗の名刹定栄山遠照寺の境内にあり鶴亀の松と呼ばれている2本の巨松です。

若神子 遠照寺の
お葉つきイチョウ
公孫樹(イチョウ)は落葉大高木で高さ30メートル、直径2メートルに達します。4月に花と新葉がでて、秋には黄色い種子を結びます。これが銀杏(ぎんなん)です。お葉付きイチョウは葉の上に種子が出てきます。

増富

日影のトチノキ

根回り10メートル余り、高さ約30メートルの栃の木。

増富

比志エゾエノキ

山地に自生するのが普通ですがこの木は珍しく平地にあります。樹高15メートル。

若神子

新町のモミの木

樹齢200〜300年と推定。樹高34メートルです。

穂足

大蔵峰の赤松

  樹齢数百年を経た老松3本。一つは「峰の笠松」と呼ばれ根回り4メートル、高さ9メートル、枝張り東西南北に12メートル。他の二本は「峰の夫婦松」と呼ばれ根元で癒着しています。こちらは根回り5メートル、枝張り12メートルです。

穂足

少林寺の梅

  町内第一の古木。高さ18メートルでこの種(中梅)では巨木です。

多麻

東向のイトザクラ

  枝垂れ(シダレ)桜。根回り5.6メートル、高さ10メートル。 

増富

金山沢のハシドイ

ハシドイはモクセイ科の木。群生し林をなしています。
若神子 東漸寺(とうせんじ)
シラカシ
白樫の分布は暖帯(カシ帯)と温帯(ブナ帯)との移り変わり目にあたります。須玉町内では若神子付近がその北限になり、特に東漸寺のシラカシは一番大きなものです。植物分類地理学上注目すべきものだそうです。
江草 紅葉橋の
トゲナシサイカチ
サイカチは豆科の落葉高木で、枝や幹に枝別れした鋭い刺があります。葉は1〜2回の偶数羽状複葉で、花は夏開くが小さくてめだちません。果実は平たく大きくて歪んだ藤の実に似ています。紅葉橋のトゲナシサイカチは刺がないのが特徴です。
穂足 大豆生田のヒイラギ  


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書跡

  • 祐天の掛軸
  • 伏見家文書
  • 岩下家文書

工芸

石像と墓は石造文化財をご覧ください。
地区 名 称 指定 内容
江草 十五所神社元禄太鼓 太鼓1台。張り替えた時に胴内に元禄16年(1703)の製作であるとの記銘が判明し、全国的にも数少ない古い宮太鼓として貴重な工芸品です。
津金 津金御所前遺跡
出土器3点
県町 昭和56年、圃場整備事業に伴う発掘調査によって出土したものです。華やかな縄文中期の土器の中でも特に技術的、造形的に優れてるため県内外から注目され、国や県などの博物館の特別展や各種刊行物に紹介されています。人面把手付深鉢(出産土器)が県指定文化財、水炎形大把手付深鉢と人面形把手付深鉢が町指定文化財に登録されています。
若神子 東漸寺(とうせんじ)
梵鐘
  万治元年(1659)に住職巨川の時に檀家の河手九右衛門が寄付したものです。治工は沼上吉久。県下でも6番目に古い鐘ということがわかっています。太平洋戦争のときには供出を免れた曰(いわ)く付きのものです。鐘胴にある銘文には、「東漸寺は古い寺であるが久しく荒れていて巨川住職の代に再興した。(略)朝晩鳴らせて煩悩を除き、菩提心を起こさしその音は遠くひびき人々に信心の心を湧かせた。(略)」との内容が漢文で刻まれています。
多麻 小倉(こごえ)   奥田信斉と養子雄蔵が小倉に来て作陶を続けたのでこの名があります。信斉は滋賀県信楽町に1821年に生まれ、明治初年長野県に来て作陶を続け信斉焼きの名で知られ塩尻市指定の文化財になっています。明治27年に山梨県に移りこの地に窯を持ちました。小倉は燃料の松が豊富で、斑山の斜面を利用して一定の風向と日照は窯を造るのに適していました。信斉は81才で小倉の地で亡くなり、墓所は上小倉見本寺にあり、雄蔵は大正初期にこの地を去りました。
増富 神部神社
金銅蔵王権現懸鏡

(かんべじんじゃ
こんごうざおうごんげん)
 


無形文化財

  • 雨乞い踊

民謡

  • 雨乞い踊の唄
  • 金山節
  • 須玉音頭

(c)津金学校