甲斐源氏の解説

甲斐源氏とは?

清和天皇の流れを汲む源氏、源頼信が甲斐守に命ぜられたのが源氏と甲斐とのかかわりの始まりである。房総で起きた平忠常の乱を平定したことで有名である。
甲斐源氏の祖は、一般には源義光といわれている。戦国時代の武将武田信玄の先祖でもある義光は、近江園城寺の新羅明神社前にて元服したことから新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)とも呼ばれた。
甲斐源氏の祖と言われる義光は、須玉町とも深い関わりがある。町内にある若神子城(わかみこじょう)は義光が京の都から甲斐に移って始めて居館を構えたところと伝えられている。同じく若神子にある正覚寺は義光の菩提寺である。
義光が甲斐源氏の祖という説は甲斐守であったことからである。山梨県中富町の大聖寺に残る過去帳には「俗名号新羅甲斐守義光」と記されていると言う。しかし、最近では義光が甲斐守であったという史実には文献上の確証が得られないという否定的な説が発表されている。義光はむしろ常陸守として当地で活躍したのである。
義光の子義清は「刑部三郎 武田冠者」と呼ばれ、その子である清光とともに甲斐国市河荘に親子で配流され土着化した。このことから実質の甲斐源氏の祖は義清であるというのが正しいのかもしれない。今の市川大門町平塩岡に義清館跡が残っている。

源義光は平安時代中期の武将。頼義の三男。知謀に富み射術をよくし,笙(しょう)に長じた。1087年(寛治1年8月)いわゆる<後三年の役>における兄義家の苦戦を聞き、朝廷の官職を辞してはせ参じた話は有名である。 なお義光は音律を好み、笙の師豊原 時忠より名器交丸を授けられたが、陸奥におもむくにさいし、名器の失われるのを配慮して、逢坂(おうさか)の関 で時忠に返還したとか、同じく陸奥に下るとき足柄山で笙の秘曲を時忠の甥時秋に授けたなどの伝説がある。(広辞苑 世界百科事典 平凡社)

甲斐源氏から武田氏へ

甲斐源氏武田氏の祖は武田の姓を始めて冠した武田信義。義光は信義の曽祖父にあたる。韮崎市神山町武田集落に館跡がある。信義は源頼朝の要請に応じて平氏討伐に駿河で活躍し軍功をあげた。後に駿河守護に任じられた。

カッコ内は兄弟名。

清和天皇—貞純親王—源経基—満仲—頼信:河内源氏(頼親:大和源氏、頼光:摂津源氏)—頼義—新羅三郎義光(義綱、義家)─義清(義業:佐竹氏、盛義:平賀氏)─清光(逸見氏)─信義(武田氏)─信光(忠頼・有義)─信政(信長:一条氏)─信時(政綱)─時綱─信宗─信武─信成(氏信・信明・義武:穴山氏)─信春(武続)─信満(満春・信元)─信重(信長・信景:今井氏祖)─信守(信介)─信昌─信縄(信恵)─ 信虎 晴信 [信玄の幼名]─ 勝頼 ─信勝

  • 甲斐源氏は清和源氏の一流で源義光を祖としている。
  • 義光は近江の園城寺(おんじょうじ)の新羅明神の社前で元服したので新羅三郎となった。
  • 若神子城は義光在任中の居館跡と伝えられる。
  • 正覚寺が菩提寺である。

参考文献・お薦めサイト

  • 荻原三雄編 山梨県の城 郷土出版社(1991)
  • 須玉町誌編集委員会 須玉町誌 須玉町 (1975)
  • 創史社 日本城郭大系 第8巻 新人物往来社 (1980)
  • 磯貝正義 定本武田信玄 新人物往来社 (1982)
  • 甲斐源氏と武田氏 豊富な写真資料と解説「甲斐源氏のことなら何でもわかる」と言ってもいいくらい充実した小俣さんのサイトです。

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