すたまの民話
弘法栗の話

むかし、御門(みかど)という部落の近くでな、子供らが栗の木の下で栗の実を拾っている所へ、ちょうど弘法大師(こうぼうだいし)さまが通りかかられたのじゃ。弘法大師様は「大きな栗の木では栗の実が取りにくかろう。」とおっしゃって持っていたつえで栗の木をたたきながら立ち去られたそうな。その後、不思議なことに栗の木の高さは一メートルたらずしか伸びないばかりか、以前にも増してたくさんの実がとれるようになったそうじゃ。そして、これを弘法栗と言うようになったとさ。

十三人塚の話

むかし、信州から信州峠を越えて盗賊(とうぞく)が攻めてきたそうな。守る一方の味方はとうとう村はずれの橋までせめこまれてしまって、さあ、たいへん、橋をこさせてはならないと村人は必死の思いで戦ってな、ついには反撃に転じることができたのじゃ。さあ、今度ははんたいに逃げまどう盗賊を追うばんでな、一人倒し二人倒して、さいごには十三人の盗賊を討ち取って村を無事に守ることができたのじゃ。そして盗賊たちを埋めて塚をきずき、それが「十三人塚」で、反撃に転じた橋を「キッカケ橋」といって今も黒森にあるそうな。

比丘尼さん比丘尼塚の話

むかし、村人たちに慕(した)われていた美しい尼(あま)さんがおってな。ある年、尼さんは、もっと修行をつむために京の都へ旅だったとさ。ところが村からはなれた峠の上で、急な病(やまい)のために死んでしもうたのじゃ。これを知った村人たちは、それはたいそう悲しんでな、かわいそうな尼さんのために塚をきずいて手厚く葬ってやったとさ。それからこの丘を「比丘尼塚」と呼び、峠の坂道を「京のぼり」というようになったそうじゃ。今でも河原石に囲まれた小さな塚が残っているそうな。

千代の吹き上げの話

むかし、大豆生田(まみょうだ)に信心深い夫婦がおったとさ。ある日、女人禁制の山である金峰山の金桜神社に向かっ千代の吹き上げイラストて、村人のとめるのも聞かずにお参りに出かけたのじゃ。ふたりは共に手をたずさえて長い山道を登ったが、目もくらむけわしい断崖まできたとき、女房のお千代が足をすべらして谷に落ちてしまったのじゃ。神のたたりと恐れた夫は、七日間断食してお千代の罪を許してもらおうと祈りつづけると、七日目の日、突然、ヒューという音とともに谷底から吹き上げた風にのって死んだはずのお千代が、、元気な姿で夫のもとに帰ってきたそうな。それから、この谷を千代の吹き上げというようになったとさ。

魔子の人穴の話

むかし、金峰(きんぷ)山の近くに魔子の山とよばれる異様な山があったとさ。この山には、今にも妖怪(ようかい)が飛び出してきそうな不気味なほら穴があったとさ。村人はこのこの穴を魔子の人穴とよび、決してこのあたりには近づかなんだ。それはな、もっとむかし、この山に魔子(まご)じじいという大男がおったんじゃ。そいつのからだといったらそれはがんじょうでな、鳥やけものを食べ、村里へ出てきては家畜(かちく)をぬすみ、時には赤ん坊までもさらっていったそうじゃ。ほら穴の入り口には、骨が積み重なり、奥からは生臭い風が吹いてくるそうな。子供がいつまでも泣いたりすると「魔子じじいが来るぞ」と言えば、ぴたりと泣き止んだそうじゃ。

平成7年の調査でこの魔子の洞穴(ほらあな)は古い鉱山の坑道だとわかりました。これで魔子の人穴の謎が解けたわけです。洞穴の入口には骨はなかったそうです。勇気ある調査隊に拍手! この鉱山は江戸時代に金を探すために試しに掘られたのではないかということで、実は、魔子の人穴の伝説は鉱山に人を近づけないようにするために創作されたのではないかとも考えられます。
獅子吼城の話

むかし、この城に獅子がおってな。たてこもる城内の兵たちのため、水をくみ上げていたそうな。だがな、ついに落城というとき、獅子はウォーッとひと声吼(ほ)えて、下の塩川に身を投げたのじゃ。そしてな、獅子はそのまま岩になったのう。それからここを獅子淵(ししぶち)とよび、城を獅子吼城というようになったそうな。村人はそれ以来、正月の獅子舞いもしなくなったとさ。

妙体石と牛石の話

牛石と妙体石のイラスト昔、武田家の血をひく一族が長者窪(ちょうじゃくぼ)に住んでいたそうな。ある日、疲れた旅の坊様が一夜の宿を願(ねが)いいれたそうじゃが、家の主人はこれを断ってしもうてな。怒った旅の坊様は呪文(じゅもん)をとなえなさると、どうじゃろう、今までわいていた水は止まり、田や畑の作物は枯(か)れてしもうたのじゃ。それゆえ、住まいをなくした一族は長者窪を去ってしもうたのじゃ。そうとも知らず、京の都より牛にのって家族のもとに帰ってきた姫は、悲しみのあまり死んでしもうてな。気の毒に思った村人たちが机山(つくえやま)に姫を葬(ほうむ)り、碑(ひ)を建てたそうな。いろんな病(やまい)の人々がこの碑をおがむと、ふしぎなことに病がなおり、女の人の腰痛(ようつう)もなおるというので、いつしか妙体石と名づけられたんじゃ。姫が乗ってきた牛は死んで石となり、どんな日照りの日でも石の上から水が流れ落ちると言われ、これは牛の涙と語りつがれたとさ。今じゃな、この石 のまわりは蕎麦(そば)が良く育つそうじゃ。

孫左衛門(まござえもん)の話

むかし、江草の湯戸に孫左衛門というものがおったんじゃ。ある日、茅ヶ岳のふもとの屏風(びょうぶ)岩近くまで牛を追って草刈りに行ったんじゃ。すると、そこに見なれない二人の坊さんが囲碁をさしておったんじゃ。孫左衛門は二人のかたわらに立って見ているとな、少したって坊さんが豆を持たせて「もう村へお帰り。」と言われてたんじゃ。そう言われて、はっと我にかえった孫左衛門は、我が家へ帰りついたんじゃが、家に帰ってみると、驚くことに3代もの長い年月がたっておってな、まわりの衆(しゅう)は顔も見たことがない人たちばかりだったんじゃ。あまりのさみしさに再び坊さんたちのところへ行ってみようと思ってな、村を出る前に孫左衛門は村人に向かって言ったそうな、「もし、屏風岩へ薪(まき)を取りに行くんなら、私は江草村のものだと言いなさいよ。」と言い残して村を去ったそうじゃ。それからは、よその村の者がこの山に来ると不幸がおこり、江草の村人なら無事だったとさ。

七人坊主の話

むかし、長者の家に山伏(やまぶし)がたどりついてな。飢(う)えと病(やまい)をいやすため、一夜の宿を願ったそうじゃ。長者はこれを断わったばかりか、山伏がかたわらにあったまんじゅうを恵んでほしいといっても、これは石だからといって断わったそうな。ところがな、翌朝、異変が起こってな。昨日のまんじゅうが本当の石になってしもうたのじゃ。現在、まんじゅう峠の石が丸いのは、この時からだと言うことじゃ。次から次へと不孝が続く長者の家は、ついにこの地に住めなくなってな、生き残った姫様は牛にまたがり、従者七人を連れて東へ進んだが、途中で姫は亡くなり妙体石に、牛は牛石になり、従者七人も次々と亡くなってしまったそうな。今でも七人坊主の墓として、点々と石のほこらがあるそうな。

長者ケ原の話

むかし、茅ヶ岳のすそのに長者が住んでおった。ある時、西国へ巡礼(じゅんれい)に行ったんじゃが途中で病気になり寝込んでしもうた。じゃがな、五、六人で旅する坊様の看護で治り、お礼に長者が持っていた刀を送り、再び旅に出たのじゃ。ある日のこと、長者ケ原の近くを通りかかったお坊様たちは、あの日のことを思い出し、長者の家を訪ねることにしたんじゃが、長者の妻は、うたぐり深く夫は殺されて、自分までも殺されると思い、、お坊様たちを追い返してしもうたのじゃ。怒ったお坊様たちは、茅ヶ岳に登り断食をして二十一日間水の神様に祈り、長者ケ原に水がでないようにしてしもうたのじゃ。水を断たれた家は滅んで、牛まで石になったとさ。(「また牛石かい!」編集者談)

ちょっとお茶ブレイク〜
上の「牛石の話」、「七人坊主の話」、そしてこの「長者ケ原の話」といい「牛が石になる」というところが共通していますが、これはたぶん(たぶんですよ)、牛石の話に出てくる牛石にまつわる話が分かれたものだと思います。そんなにいっぱい牛の形した石がごろごろしていたら想像しただけで恐いと思いませんか。

弘法水の話

むかし、むかしのある日のことじゃった。弘法大師様が諸国を旅している途中に増富にある御門(みかど)という所に立寄ったときの話じゃ。その日は夏の暑い日でな、お大師さまは長旅と暑さで喉(のど)がカラカラにかわいておったんじゃ。一軒の農家の庭先で女の人が洗濯をしておったので、お大師さまが一杯の水を所望したところ、その女は遠い所まで行って冷たい水を運んできてお大師さまに差し上げたのじゃ。お大師さまは大変喜んでな、お礼にと独鈷(どっこ)を地面に突き刺したのじゃ。すると、どうしたことかそこから冷たいきれいな水が湧き出してきたのじゃ。地元の人は、いつしかこの水を弘法水と呼ぶようになってな、今でもこの水は沸き続けているということじゃ。

淵の端の話

御門と和田のほぼ中間を流れる釜瀬川に、そのむかし、大きな淵があったそうじゃ。その淵のまわりには木々が青々と茂っておって水も澄んでとてもきれいでな、深さも5メートル以上はあったということじゃ。そこにはな、河童(かっぱ)が住んでおったのじゃ。その河童は、よくこの淵に来る子供たちといろいろなことをして遊んで暮らしておった。それに、その河童は、近くの田んぼや畑に行って仕事を手伝ったりもしたそうじゃ。偉い河童じゃのう。しかし、本当の目的は手伝うことではなくて、人間の後ろにまわって「しりこだま」をとって食べることだったんじゃ。だが人間はそのことを知ってたんで、めったに取られることはなかったということじゃ。何年かしてその淵の水も汚れ、河童も住めなくなってどこか行ってしまったらしい。その深い淵も今では2メートルくらいになってしまったということじゃ。(「川を汚した人間が悪いのかな」)

各イラストは須玉町民話絵図より使用しました。資料館にて販売しております。


ことばのせつめい


弘法大師(こうぼうだいし)
空海(くうかい)という名前の平安時代の偉い和尚(おしょう)さんのこと。真言宗(しんごんしゅう)という仏教の一派を開いた人。書道の達人でもあったので、「弘法も筆の誤り」(優れた人でも間違うことがある)ということわざにもなっている。
比丘尼(びくに)
尼さん、つまり、女の坊さんのこと。
大豆生田(まみょうだ)
穂足(ほたり)地区にある地名、塩川と須玉川の合流点付近。戦国時代にはここに砦(とりで)がきずかれた。
金峰山
甲府市と長野県境に位置する奥秩父第一の標高(2598m)を誇る山。一般的な登山ルートは須玉町増富地区の瑞牆(みずがき)山荘入口になる。詳しくは須玉町の観光案内、または山日新聞社の「山梨百名山」を参照してください。
獅子吼城
江草地区の塩川沿いの山にあった城。城にまつわるこのいわれは武田時代以前のことである。詳しくは須玉町の文化財目録資料館展示案内を参照してください。
ビッグフット
1960年から北米でたびたび目撃されているという謎の猿人。大きな足跡からその名が付けられた。興味ある人はYahoo.USA(もちろん英文だけど写真を見ることができる)で検索してみよう。
長者窪(ちょうじゃくぼ)
今の明野村(須玉町の東)にこの地名が残っています。机山は茅ヶ岳(かやがたけ)の山の一つです。
長者
とても金持ちの人。
山伏
山に暮らしながら修行をする僧のこと。
ほこら(祠)
神様をまつった小さな家の形をしたもの。社(やしろ)とも言う。
西国
西国三十三ヵ所観音霊場のことで、西国は関西のこと。
独鈷(どっこ)
「とっこ」とも言う。坊さんが使う道具の一つ。煩悩(ぼんのう:欲のこと)を打ち砕くという意味がある。
御門と和田
須玉町の増富(ますとみ)にある地区の名前。増富は温泉で有名なところ。
河童(かっぱ)
人が考え出した動物。妖怪の仲間。子供の形をしていて、頭にお皿をのせている。川や沼に住んでいるらしい。河童のことをもっと知りたければこちらを見てみよう。


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