須玉町の歴史

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縄文土器

品名 説明

人面把手付深鉢
(出産土器)

県指定文化財

画像

大渦文
大把手付深鉢




のろし関係資料

品名

説明

烽火台 (模型と地図)

のろし台画像武田信玄は甲斐の国と侵略した周辺の国々に烽火網を縦横に張り巡らしていました。武田の烽火は「飛脚かがり火」とも呼ばれ、烽火を飛脚のように伝達道具として使われたことが想像できます。永録4年(1561)の川中島の戦いの時にはこの烽火台ネットワークを用いて信濃の海津城から甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館までの約160km を2時間ほどで上杉謙信の軍の川中島進出の知らせを伝えたと言われます。 烽火台の詳しい説明


Y 旧津金学校藤村式校舎資料
品名 説明
校舎建築計算帳 (一部複写) 藤村式校舎建築に関して残る唯一の文書でガラスとペンキを購入したことがわかる。
褒状(ほうじょう)と木盃(もくはい) 校舎建築の財源は地元が負担しましたが、その時の寄付に対して藤村紫朗県令(県知事)から褒状と木盃を賜りました。木盃には桐の紋が描かれています。褒状には30円の寄付がされたとあります。
木盃褒状
屋根板 創建当初の屋根はトントンブキと言われる板屋根で竹製の釘で留めてありました。
漆喰造りの柱飾り 2階のバルコニーの円柱の柱頭部分にあったもので、本来は石の柱と一体であるものが形だけを真似たため柱は木製で飾りは漆喰で造りました。
柱の板材 円柱は寄せ木造りで四角の柱に蒲鉾状の板を4枚はって丸く見せました。これは日本建築の技法の一つです。


Z 旧津金学校教育資料

品名 説明
山梨懸甲斐國小学校生徒勉強鏡 明治11年に木版印刷された小学生の成績優秀者の番付け表です。優秀者は級別に学校名と氏名が載っています。学校名は全県を網羅していますが、行われた試験が昇級試験だったかどうかは不明です。しかし、これは教育資料として全国的に珍しいもので、また当時の山梨の教育政策を知る上でも貴重な資料なので国立歴史民俗博物館(千葉県)に複製が展示されています。
学校日誌 大正時代からの43冊が保存されています。大正12年25日の欄には大正天皇崩御のことが記されています。昭和20年8月16日の欄には「ポツダム宣言受諾の翌日にして一億血涙を呑む」と書かれています。
画像 学業番付表 
山梨県小学校生徒勉強鏡
画像 学校日誌
学校日誌
卒業写真 学校に残る最古の写真は明治44年津金尋常小学校の卒業写真です。その他に大正15年の尋常高等小学校、昭和2年の津金小学校、昭和3年の津金尋常高等学校の卒業写真はどれも藤村式校舎が背景になっています。生徒はほとんどが着物姿ですが昭和の写真には詰め襟に学帽の男子生徒もいます。
商品のラベル 昭和2年頃の商品ラベル。足袋、鉛筆、葡萄酒(ワイン)など30点ほど。学校の公文書とともに見つかったもので、当時、女子師範学校があった山梨市付近の商店のものがあるのでその関係者が集めたものかもしれない。
卒業、修業証書 大正5年津金尋常高等小学校のもの。
国民学校通知表 昭和21年頃、奉仕活動に対する評価が記されて、その内容から犠牲的精神が尊ばれていたことが伺える。終戦の直前で生徒たちは勤労奉仕や実習などにかり出されていたので学業成績簿はほとんどもらえず、中学生以上の子は卒業式すら行ってもらえなかった。
明治時代の教科書 明治初期から明治20年頃のもの。
感謝状 昭和16年、奉仕活動に対する感謝状で陸軍大臣東條英機の名前が記されています。
世界地図 昭和17年3月製作。日本陸軍が南方を占領しはじめた頃で占領地が赤色に塗られている。満州国もあります。
空襲警戒警報板Z-10
空襲警報告知板
‐‐裏面は警戒警報と記されています。藤村校舎には村役場があってラジオで警報が鳴ると表に掲げられました。
明治天皇御真影掛軸Z-11
明治天皇皇后御真影掛軸 
東京 岡本竺齎戒謹書
‐‐御真影の上には、日露戦争の「宣戦勅書」(明治37年2月10日付)と日露請講和条約に関する「平和勅書」(明治38年10月16日付)、それに「陸海軍人ニ賜リタル勅語」が併記されている。


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