海岸寺

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海岸寺山道入口画像海岸寺は須玉町上津金の海抜1,000mの山中にある妙心寺派臨済宗のお寺です。
奈良時代の養老元年(717)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が庵(いおり)をかまえたのが海岸寺の起源だと伝えられています。行基菩薩が彫った2体の千手千眼観世音のうち1体は海岸寺へ、もう1体は長野県の海岸寺に奉られました。
737年には聖武天皇から『光明殿』の勅額を賜り国の祈願所となりました。その後11世紀には甲斐源氏の祖として知られている新羅三郎義光が京より玄観律師を海岸寺に迎えて国家鎮静の大道場としました。
14世紀の武田氏の支配する時代には鎌倉の建長寺から石室善玖和尚を招いて臨斉宗に改宗し海岸寺の開祖としたと伝えられています。
1582年(天正壬午の乱)に織田信長が甲斐に侵攻した際に寺は焼き払われましたが、翌年、徳川家康によって再興され、1603年に天下安寧の祈願所として定められました。
《海岸寺発行のパンフレットより》
★右上の画像は海岸寺の山門です。
■境内は夏でも涼しいくらい杉の巨木が生い茂る山の中です。春には桜、秋には鮮やかな紅葉、冬の雪景色など四季折々の風情が味わえます。資料館から車で10分ほどです。
行基? 全国をまわって仏教を広めたり人々を救った奈良時代のお坊さん。745年日本で最初の大僧正(だいそうじょう・一番偉い坊さん)になった。
海岸寺の名前の由来

■海岸寺の名前の由来はいくつかありますが、一つは経文からきているという説。「観世音の本所、補陀落山は天竺南海中にあり」という新華厳経第68説話があるのですが、この補陀落山は海岸孤絶山とも言われることから海岸寺の名が付けられたというもの。もう一つは、大昔、甲斐の国の盆地一帯は湖水であったからという説です。後者は俗説のように思われますが…。

■海といえば八ヶ岳のふもとを走るJR鉄道も小海線と言います。沿線には小海や海ノ口など「海」の字の付いた地名がいくつかあります。不思議ですね。なにか意味があるのかも知れません。

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イチョウの落ち葉が黄金色に彩る海岸寺の庭園
百番観世音石仏(百体観音)
■海岸寺の境内には西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の各札所の観音像や延命地蔵尊などを移した百番観世音石仏が安置されています。これらの石仏の製作者は長野県高遠の出身で江戸時代後期の名工であった守屋貞治(もりやさだじ)(1765‐1832)です。百番観世音は貞治の生涯の全作品のうちの約3分の1にあたり彼が50歳をすぎた頃に8年を費やして彫ったと伝えられています。
海岸寺の石造画像 海岸寺の石造画像 海岸寺の石造画像
十一面観世音 馬頭観世音 如意輪観世音

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ページタイトル「海岸寺の百観音」

海岸寺にまつわるエピソード

観音堂(大悲閣)

『津金むかし話』によると、韮崎市に穴観音の雲岸寺というお寺があるのですが、この雲岸寺と津金の海岸寺は名前が交換されて付けられたという言い伝えがあります。昔、津金と韮崎の二つのお寺の名前を書いた紙を託されて京の都から使者がやってきました。ところがこの使者がお寺の紙を間違って渡してしまったのだそうです。そんなわけで、津金の山の中の雲の上みたいな所にあるお寺が海岸寺。韮崎の釜無川ちかくにある穴観音さんが雲岸寺になったというわけです。本当なのでしょうか…。 海岸寺観音堂を正面から望む。
海岸寺観音堂
江戸時代の傑作立川和四郎の木彫り。
粟とウズラ
■海岸寺の観音堂は慶長8年(1603)建立、入母屋作りで向拝付茅葺きの建物です。現在の建物は江戸時代の1810年に再建築されました。正面軒下を飾る粟(あわ)とウズラの彫刻は信州諏訪出身の名工立川和四郎の作です。1845年着工、約20年の歳月を費やして竣工されました。その特色は細部が優れた彫刻によって満たされ、且つ全体的に均衡のとれたデザインにあります。日本の木彫史をかざる江戸時代の代表的な彫物の一つとしても貴重なものであります。百番観世音石仏と共に町の重要文化財に指定されています。
全国の札所のリスト(木村叡さんのサイト)  
守屋貞治についてのノート
■江戸時代後期の明和2年(1765)に(現)長野県高遠に生まれた。上諏訪の温泉寺の住職だった願王和尚に帰依して仏道の教えを修得したと言われる。この出会いが貞治を石仏師の道へ導いたのであろう。生涯に彼が彫った石仏は336体にのぼり、その3分の1ほどが海岸寺にある。68歳で亡くなったがその晩年には眼病のため視力を失いながらも手探りで仏を彫ったという。
■下の写真は須玉町の見性寺にある貞治の作による延命地蔵。海岸寺以外で町内に残る守屋貞治作の石仏である。蓮座の下の石には「文化十三竜舎丙子」とあり1816年以前の作であることがわかる。
■その後の聞き取り調査で、津金にはまだ貞治の彫った石仏が3体あることが判明した。それは津金地区の古い家に関係していて、貞治が海岸寺の石造を彫っているときに当時の村人達との交流があったことが伺える。
貞治の石仏があると知られている寺
海岸寺(山梨県須玉町)
見性寺(山梨県須玉町)
下の画像↓
温泉寺(長野県諏訪市)
建福寺(長野県高遠町)
桂泉院(長野県高遠町)
光前寺(長野県駒ヶ根市) 
宝珠院(愛知県らしい)
石仏関連ウェブサイト
日本石仏協会 見学会・講演を開催してます。
守屋貞治の石仏 石仏の画像が豊富です。

臨済宗 集雲山「見性寺」
臨済宗妙心寺派(禅寺)
 所在地:須玉町江草
貞治の延命地蔵 貞治の延命地蔵
元応二年(1319)五月四日に獅子吼城で討死した信田小右衛文実正親子の菩提寺として元享元年(1321)に開かれた。天正十年(1582:天正壬午の乱)織田信長の兵に火を放たれ焼失したと伝えられる。
見性寺入口

発見! 貞治の石仏
聖観音菩薩像 □新たに見つかった守屋貞治によって彫られた3体の石仏はすべて上津金地区の字(あざ)の桑原(くわはら)にある。

■この石仏は小森家の墓にあった聖観音(しょうかんのん)菩薩である。石仏本体の高さは56.5センチ、蓮華座(れんげざ)の上から光背(こうはい)の先端までの高さは約80センチ。聖観音菩薩像蓮華座とは観音の下の部分で蓮の花を模している。光背はいわゆる後光を現すもので観音の背(背面)にある。この観音は左手に蓮の蕾(未開蓮)を持っている。蓮華座の下の墓石には「文政九戌年九月廿一日」と彫られていて1826年以前に彫られたことがわかる。

■聖観音は衆生(しゅじょう)の願い事を聞き、三十三の姿を現しているもので、古くは平安時代中期から信仰が始まり、平安時代末期には西国三十三所観音霊場巡礼が始まったとされる。室町末期からは西国に坂東三十三所と秩父三十四所を加えて3ヶ所百観音を巡礼するようになった。そして、この巡礼信仰は江戸時代には庶民の間に広まって「百番供養」の石塔が地方の各地に見られるようになった。海岸寺の百体観音は、そのうちの一つである。


■こちらの石仏は浅川家の庭にあった地蔵菩薩である。光背の高さは82センチ、蓮座をいれると96センチにもなる今回調査した他の2体や海岸寺の石仏と比べるとかなり大きい。
右手には錫杖(しゃくじょう)を、左手には日輪(太陽のこと)を持つ。錫杖とは僧侶が持つ錫(スズ)の杖のこと。蓮華座の下の墓石には「文化十二亥年地蔵菩薩十月朔」と彫られていて1815年以前に彫られたことがわかる。

■この石仏のいわれは、家主によると貞治が海岸寺の石仏を彫っている時に逗留していて宿賃代わりに彫ったということだそうが真偽のほどは定かではない。

■地元の人の話によると、上の小森家、浅川家、そして下の相吉家はその昔は名主だったそうだ。貞治は当時地元で地位の高かった名主たちに頼まれてこれらの石仏を彫ったのかもしれない。



地蔵菩薩■相吉家の地蔵菩薩。石仏本体の高さは40センチ、蓮華座を入れると約50センチの高さになる。蓮華座の下の墓石は相吉家先祖のもので、一人は「文政十二丑年十二月十八」(1829)、もう一人は「天保八年酉年二月十五」(1811)と彫られていている。この場合、石仏は墓石とは関係なく彫られたのではないかと想像される。
日付の考察
■手元の資料『甲州海岸寺』によると、海岸寺の住職桃渓和尚が百番観世音を彫るように貞治に頼んだのが文化11年(1814)とある。
はじめ貞治は棟梁として自らノミを握らず高遠の三人の石工たちに彫らせたのだが、十体ほど彫らせた後で、出来映えが悪かったのか、その後は貞治が彫ったという。
まず初めに西国三十三ヶ所観音を文化年中(1814-1817)に仕上げ、そして、文政7年(1824)に百体の完成供養が7日間にわたって行われたとされている。これが事実とすると、貞治が津金に居たのは1814年から1824年のほぼ10年間になる。同資料には貞治は約8年をかけて仕上げたともあるので、完成が1824年とすると貞治が実際に彫り始めたのは1816年からになる。
石仏(墓)の日付
見性寺 1816
小森家 1826
浅川家 1815
相吉家 1829

■海岸寺以外に残る4つの石仏の日付(右の表)をみると、このうち見性寺と浅川家の石仏が貞治が津金に居たと考えられる時期(1816〜1824)と符合する。他の二つはおそらく本来は墓石として彫られたものではなく、後に家人たちが墓石として流用したとも考えられる。つまり墓石の日付よりはだいぶ前にそれぞれの石仏が彫られたと考えられる。
参考文献
『日本石仏辞典』 庚申懇話会編 昭和62年 第2版6刷 雄山閣
『甲斐国海岸寺 うつし霊場 百体観世音』 植松波雄・野牛嶋豊治共作発行 昭和62年 
『甲州海岸寺』 井上清司  昭和63年 研光新社
最終更新日2000-11-15

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