天正壬午の乱 | ホーム > 須玉町歴史散歩 > 天正壬午の乱 |
■武田氏の終焉 戦国時代、甲斐武田氏は中部・駿河地方の大部分の覇権を握っていたが、天正元年4月に信玄が病死すると、甲斐の地は近隣の武将たちの侵略の的となった。信玄を継いだ勝頼は天正3年5月の長篠の戦いで徳川家康・織田信長連合軍に大敗すると甲斐に戻って態勢の立て直しをはかった。信濃方面から織田軍、駿河方面から徳川軍、そして関東方面から北条軍から甲斐に攻め入る勢いであった。そこで勝頼は韮崎に近い新府へ城を移して(同9年)防衛態勢を整えた。しかし、勝頼の義弟の木曽義昌が信長に寝返ると態勢は一気に織田・徳川・北条軍に有利となった。次々と他の家臣達も織田軍へ寝返り信濃は戦わずして織田の勢力下に陥った。織田軍が諏訪方面から国内に迫ってくると勝頼は自ら新府城に火を放って(同年3月3日)岩殿城(大月市)へ向け背走した。しかし、笹子峠で背反した家臣の小山田信茂に阻まれ、ついに天正9年3月11日、勝頼は自害してここに武田家が滅亡した。 ■天正壬午の乱の始まり ■北条vs徳川 ■家康の天下 |
|
資料 | 図説 韮崎・巨摩の歴史』 郷土出版社 2000 | |
『日本城郭大系第8巻 長野・山梨』 創史社編 1980 |
須玉町歴史散歩 | サイトマップ | メール |
(c)須玉町歴史資料館