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津金の地名や姓について、資料館にある資料で調べた結果をここにまとめます。 |
1、津金氏の祖 |
■津金氏の祖については二説があります。 ■津金の祖は佐竹胤義であるとする佐竹氏説は山梨の津金氏が家系譜の拠り所としているもので、津金家が編纂したリーフレット津金一党の軌跡に近代の津金氏までの系譜が明記されています。反対に対馬守を祖とする武田氏説は、手元の資料によると、不明な点が多いのが説得力に欠けます。この武田氏説は甲州から江戸に移り住んだ津金氏の子孫が拠り所としているようです。 ■これら二説の大きな違いは、誰が最初に津金の姓を名乗ったかという点にあります。 ■津金氏の祖である佐竹氏の祖は、源義業という説と昌義という説がありますが、津金の系譜はわかっているだけでも9種類もあるということですのでここではそれぞれの記述は省略します。各系譜に共通していることは昌義は義業の1代後であるということです。 ■ちなみに、義業の弟の義清は逸見(へみ)氏の祖に、また義清の2代目が信義で武田氏の開祖となっています。つまり、佐竹氏も武田氏も義光を先祖にもっていることになり、清和源氏をみなもとにその同じ流れに属すと言えます。 ■結論、佐竹氏説も武田氏説も津金氏の先祖は甲斐源氏の流れを汲む佐竹氏であることを説明しています。誰がはじめに津金の姓を名乗ったかについては上記の通り主張の分かれるところです。これら二つの説の主張の分かれ目は津金の先祖が佐竹氏なのか武田氏なのかという点にあるのではなく、根拠となる資料の記述の違いにあるようです。つまり、『甲斐国志』か『寛政重修諸家譜』のどちらを頼るかということです。 |
2.同族 |
■甲州の津金氏は名古屋、東京(江戸)、長野県の佐久の3方面に分散しました。3代目の胤時の長男胤久が大阪冬の陣と夏の陣において徳川家について戦い、それ以降尾張に移住しました。一方、長野の津金氏と甲州の津金氏との直接の関連は明らかではないのですが、3代目の胤時の四男津金主税が海ノ口の高見沢家に養子に入り、また、4代目胤重は佐久の川上より津金家に婿として入ったということですので、この3、4代目が信州津金氏との接点になります。しかし、主税が津金姓を続けて名乗ったのかはわかっていません。長野の原村の津金家の宗門帳によると祖先は甲州より移住したとの記録もあるそうですので、信州の津金氏は甲州の津金氏から出たことは確かなようです。そして、江戸の津金氏は、武田氏滅亡後、徳川家に仕えた津金氏の一部が江戸に移り住んで幕府御家人や旗本になったということです。 ■甲州津金氏の菩提寺は百体石仏で有名な海岸寺(須玉町上津金:臨済宗)になります。源義光が開基したと伝えられています。津金胤秀は下津金に東泉院(曹洞宗)を開きました。胤秀の墓はこの東泉院にあります。東泉院の寺紋は武田菱です。 ■名古屋津金氏に縁のある寺は含笑寺(がんしょうじ)と梅屋寺(ばいおくじ)です。両寺とも曹洞宗です。一方、東京四ッ谷にある全勝寺は津金胤卜の菩提寺になっています。 |
3.津金の由来 |
■では、そもそも「津金」という名の由来は何でしょう。一説によると、もともと「栂峰」という字であったらしく、栂(つが)が多く生育していた土地だったことから付けられたとのことです。「津金」になったのは、佐竹胤義、または対馬守某が「栂峰」を氏名にするときに見栄えの良い漢字に変えたのではないかとも推察できますが、これは定かではありません。 ■長野県北佐久郡立科町に津金寺という寺がありますが、この寺は津金氏が出る前からあったとのことです。この津金寺と山梨の津金の地名と津金の姓との関連は不明ということです。津金寺は天台宗のお寺で、この寺には津金にある海岸寺の開祖である行基菩薩が彫ったと伝えられる2体の千手千眼観世音のうちの一つを本尊としています。 |
4.津金衆 |
■甲州の津金一族は武田家に仕えた武士集団として「津金衆」の名で知られています。津金衆は、共通の祖先を持ち、通婚などによって結束を固めた血族集団であったと伝えられています。彼らは戦国時代には甲斐から信濃へ通ずる佐久往還の防衛を担っていました。武田家滅亡後は、徳川家康に仕えて北条氏のこの地への侵攻を食い止め、以後徳川家の旗本となりました。当資料館の裏にある諏訪神社は古宮(ふるみや)の城跡として知られておりここに津金衆の城があったという説もあります。 |
参考資料 |
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(C) 須玉町歴史資料館