+Re_JIRO木村二郎回顧展 オープニング・トークショー
角田純 × 豊嶋秀樹
2009.9.6 大正館

木村二郎氏とは親友でもあり、ポスター・ロゴデザインを手がけた角田純氏(アーティスト・デザイナー)と企画展展示をプロデュースした豊嶋秀樹氏(アーティスト・空間プロデューサー)おふたりによるトークショーを、所縁のある大正校舎にて開催いたしました。

角田>>
角田です。木村さん、二郎さんと呼ばせていただきますが、二郎さんとはこちらに来た20年近く前になるのですが、それからのつきあいです。
これからいろいろ話していきたいと思いますので、豊嶋さんに質問していただいて、私が答える形で進めるのがいいかなと思います。

豊嶋>>
豊嶋秀樹といいます。
おそらくなんですが、皆さんを含めて、僕が一番、二郎さんやトラックスを知らない人間じゃないかなあと思っています。今回いろんなご縁があって、ここへ座らせていただいているんですが、今回の展覧会を通じて、私は、逆に「もう会うことのできない二郎さん」に出会ったわけですが、このトークショーでは、ですので質問というか、私が二郎さんを知るための機会にもさていただけたらなあと思います。そういう前提をご理解いただき、角田さんにいろいろお伺いしたいなあと思っています。
まず、そもそもの角田さんと二郎さんの出会いのエピソードからお話いただけますか。

角田>>
ちょっと変な話なんですが、インドネシアで20歳過ぎのときに、マジックマッシュルーム、きのこを食べたんですね。食べたときに、仏教でいうようなインスタントの悟りみたいな状態になってしまいまして、それをどういう風に処理していいのか分らなくて、いろいろいろんな人に聞いたり本をよんだりして自分で確認をとっていくにあたって、その後ある人から、八ヶ岳に瞑想をやっているひとがいて、その人のところへいってみたらどうかというのでこちらのほうへ始めて来たんです。
僕がまだ東京でデザイン事務所をやっていました、ちょうどそのとき二郎さんも山梨へ来たんです。そういうことに興味がある、それで出会ったんですね。僕が二郎さんに、すぐこっちに引っ越してきたほうがいいよという話をして、最初に二郎さんは農家を借りてそこを改造して住み直してからの友達ということです。
ギャラリートラックスは、まだその頃やっていなくて、僕は最初二郎さんがインテリアデザイナーであることは知っていたんですけれども、家具とかを作るというのはまったく知らなくて、二郎さん自身はまったく家具を作ったことが無い人だったんです。
僕はたまたまこっちに引っ越してくるときに、最初に家を建ててしまったので、その家の家具を二郎さんに設計してくれないかというふうに発注したんですね。それが出来上がってきて、それはまあ凄くいい家具だったんですけれども、二郎さんちに遊びに行くと、二郎さんが自分で家具をつくって、古い廃材とかを使って作っているものがあって、それのほうがどう見てもかっこよく見えてしまう。「こっちのほうがいいね」というと、「いや俺素人だから」って、いいながら。その頃二郎さんは、43歳くらいだったと思うんですけれど、のこぎりも持ったことが無かったんですって。それで作り出して、最初にみたら、もうかっこいいですね、その家具が。これは実は才能があるじゃないかと思ったんです。「二郎さん、家具で食べてけるんじゃない」というので、発表の場所が欲しいとパートナーのえつこさんがいろいろ考えて、二郎さんと探しまわっていたら、ちょうどいい古い幼稚園があって、そこをギャラリーにしたい、そこで自分の家具を発表できたらいいねって、なんとなく進めていってこつこつ作り始めたのが、そもそものスタート・きっかけですね。家具を作り出したときは、それまで、作ったことのない人だったので、僕はそれはすごいびっくりしました、あんなに上手に作る人がいるんだって。最初からそういう才能があったんだろうなあと思いますね。

豊嶋>>
今回展示していても、凄く本当に実用的な家具という形のものから、なんか実は使い辛いじゃないかというものだったり、それとかオブジェだったり、よく分らないものだったりとか、結構いろいろあると思うんですけれども、そういうものは同時期に作ったものなのか、それとも、同時並行するように作っていったものなのか、この時期は徹底的にこうスタイルの家具を作っていて、時代を追ってああいう風に作るものが変わってきたりしたのか、どういうものだったんでしょう?

角田>>
最初は、「オブジェ」だったんです。オブジェという言い方も変なんですけど、山梨に引っ越してきた当初、古い農家、人が住んでない農家が結構点在していたので、そういうところに二郎さんは勝手に忍び込むというか・・忍び込んではいろいろ、例えばのこぎりとか農機具とかに二郎さんはものすごい興味を持って、これは面白いといってコレクションし始めたんですね。それを、今度は組み合わせて家具というよりはオブジェを作り始めたんですね。
そのあと、僕がたまたま東京のほうでちょうど「アーバナート展」というのが始まったばかりの時で、アーティストをそこで募集してるよというので、僕が二郎さんの面白いから出してみればっていって紹介したら、二郎さんは出品したんですね、そのオブジェを。そしたら賞をもらいまして、ただそのときに、表彰式にいったら、二郎さんは自分が最年長だったんですよ(笑)こんな恥ずかしいこと二度とやりたくないと。
最初はオブジェを作っていたんですけど、そのうち家具をちょっとずつ、古い農機具を組み合わせたり古い農家に置いてあるようなものを組み合わせたりして作るというような。  それが凄い斬新に見えたというか、面白かったですね。
さっきの話ですと、一番関心があったのは、二郎さんに聞いたわけではないんですけれども、僕がみた限りにおいては、彫刻的というかオブジェというか、たぶんオブジェの一個として捉えていたというところがあって、その時々によって並行して例えばオブジェと家具というのを作っているんです。
ある時期は 同じような雰囲気があって、古い農機具ばっかり使っているときもあれば、古材ばっかり集めて使うときもあれば、それこそある時期から、二郎さんが雑誌に取り上げられるようになって、「古材作家」「八ヶ岳に住む古材作家」という風にたびたび書かれているのをすごい嫌がって、「俺、古材作家じゃないよ」「そんな家具、作ってない」。
そうなると、その反動で「俺、ベニヤ板しか使わない」とかね、DIYショップで売っているものだけで作るとか、安い素材だけで作っていたり、そのときどきで、そういうふうにオブジェも還元して組み立てていくとか、そんな感じのスタイルでしたね。あるときは、木工家具のようになっていたり、見ていて変化がすごくあるのでそれは面白かったです。いろんなスタイルのものが出来上がって来るので。あんまり家具自体には固執していなかったとは思うんですよね、作ることは常にやっていたいということだったので。
最初は山の中で、悦子さんに見せるためだけに、インスタレーションみたいなことをやっていたりとか、そういうことをよくやっていたので、自分のギャラリートラックスもその一環のひとつだと考えていますね。

豊嶋>>
なにか家具をみていても、民家に忍び込んで取ってきた所から始まったとおっしゃっていましたけれども、わりと古材というよりは、たまたま見つけたりとか出会ったりとか拾ったりとか、あっ、て思うようなものと自分がコラボレートしてる、そんな風な感じかなと思ったんですけれども。

角田>>
傍目、友人として二郎さんをみていると、すごい「素材フェチ」という言い方は変なんですけれども、例えば古い釘とかものすごい集めて、この釘はいいなあ、とか。二郎さんが亡くなったときに、悦子さんが、そんなのがダンボールに入っていて、「こんなのガラクタだらけ」っていっていたので、「二郎さんにとってはこれガラクタじゃないよ」って。だからいろんな昔の時代の古い釘を畑でも歩いていて拾うと、これいい、とか感じるように、そういう素材フェチというようなところがあったので、古いとか新しいとかという概念はあまりそれに対してはもっていなかったと思いますね。ただよく言っていたのは、農機具にしても、古い時代のものはよくできてるとか、凄くきれいだとかよくいっていました。だから、素材とか古いものとかには凄くインスパイヤーはされたんだと思います。ただ本人の中では、それを使ったそういうスタイルの作品を作るという発想はあまりしていなかったと思うので、その時期はたまたまそれがあったのでこれでやるとかいう感じだったと思いますね。

豊嶋>>
そういうものを拾ったり畑で見つけたりというなかで、縄文土器のかけらを偶然見つけたことがあって、そこから強い関心を縄文文化や土器とかに寄せられたというお話を伺っているんですけれども、その辺は?

角田>>
最初は、こちらに住んでらっしゃる方はお分かりかと思うんですけれども、あぜ道とか畑から石が掘り出されて積み上げられているんですね、その中に土器の破片とか転がっていたりすることが多かったんです。そういうのを、僕や二郎さんは、最初文様が珍しいのでなんだろうこれっていって、あるとき農家の人に「これ何の破片なんですか」っていったら、農家の人に「縄文土器や」って言われて、それでもうびっくりして、縄文土器ってこんなところにあるんだ、ってなって、二郎さんと「縄文土器とりにいこうよ」って、「どっかにあるに違いない」といってよく道路工事とかやっているところって、土器が出てきて、集落の出てきている発掘現場があるんですけれど、土器が土の中にちゃんと点在しておいてあるんですよ。見に行ったりして、「あれ欲しいね」とかいって、「でもそれ採ってったら窃盗になるよな、あれはまずいよ」って。
そういうところでやってらっしゃる考古学の人にきくと、どけた土の中なら探してもいいよって言われたので、掘って探していいたら、ある日、二郎さんが、めったに出てくることはないんですけど、形のまんまのつぼが出てきたんです。それを見つけてものすごい興奮していて、「これー!角田くん!」って声が出なくなって、あー・・って。これは凄いって、最初はもう縄文にのめりこんで、僕ら段々はまってきて、「多分縄文の集落はたくさんあるはずだから探そうよ」っていって、縄文時代だったらどこに住んでも土地はタダじゃないですか、だから絶対いいところに住むに決まってる、と考えて、川が流れていて日当たりのいいところに行って、この辺だねといくと、大概神社とかあって、じゃそこかちょっと離れたところを探しているとそこから土器が出てきたりして。二郎さんは見つけるのがものすごく上手くて、必ずいいのを見つけたりする。一緒に採りに行くんですけど、必ず二郎さんの方がいいものを見つけるんですよ。そういう勘もものすごく働く人でしたね。はまりだして、そのうち、本で、縄文はこうだったに違いないとか、、、それでこういう形とか、こういう形は普遍的なものだったろうねとか、家具に転用していったところもありますよね。とくに初期の農機具だとか、古い木の色とか、ああいうのは縄文土器の色とか、それをやるために、漆とかニスとかを使ってたと思うので。僕も同時期絵を描いていたときには、色味が茶色いっぽいとか、そのときは気づかないんですけれども、後になって、ああ凄く影響されてたんだなと思います。

豊嶋>>
展示の時にも、スーパーの袋にはいってる感じで、縄文土器のかけらが、ガサガサって用意していただいたんですけれども、結構普通にじゃかじゃかでてくるんですか?相当な数なんですけど。

角田>>
出てくるとなると、前に二郎さんが住んでたところの裏に畑があったんですが、そこの道路の脇を二郎さんは毎日掘ってたんですけど、出てくると一箇所に固まって出てくるので、ざっと出てくるんです。

豊嶋>>
なるほど。

角田>>
そのうち、二郎さんはいつのまにか地元の考古をやっている人と友達になって、そういう人から情報を仕入れて、破片だったらもってってもいいよって言われたよっていったりしていましたね。

豊嶋>>
今回の展示の一部として、縄文土器を展示させていただいたんですけれども、なんかこう盗まれたりしないかなあと思いながら展示していたんですけれども。大丈夫ですかね。(笑)

角田>>
二郎さんの性格なんでしょうけれども、面白いのは、いいのを見つけると必ず人にあげちゃうんですよ。例えば、僕が東京で事務所やっていて、二郎さんは遊びにくるんですけれども、こんなダンボールで、ものすごい土器を持ってくるんですよ。

「これ、角田くん凄いでしょ」

「すごいねー」

っていうと、

「あげるわー」

って。(笑)

自分がほしいというのよりも見つけてるのが楽しい、一番いいのを見つけて人にあげる、あげるひとがびっくりするのを見たいみたい。それを、価値があるその縄文を見つけてあげても、人によってはあんまり興味なさそうな人だと、あれは失敗だったなあと。

「あんないいの、あげんかったらよかった。」とかね。(笑)

豊嶋>>
先ほどお話されてましたけれど、家具オブジェなど沢山展示してありますが、本当にいい作品は、人にあげてしまってここに無いんじゃないですか。

角田>>
そうですね、僕が見て凄くいいなあと思っていたものは、やっぱり人手に渡っていたりとか、自分の手元から無くなっていることが多いので。

豊嶋>>
二郎さんは、建築の内装の仕事をしたときに、そのままおいてきちゃったりするともお伺いしましたが?

角田>>
そう、内装の仕事をしてくると、まあさっきの話じゃないんですけれど、例えば石膏とか石とか、わりときれいなのを作っているんですけど、そういうのをなぜか内装した先の棚とかと一緒に置いてきちゃうんですよ。

「いいの?」とたずねると、

「うん、あそこにはあったほうがいいよ。」と。

二郎さんに頼むと家具からオブジェからすべてが付いてくる、という(笑)。
そういう空間にしたかった、だから多分一番やりたかったのは、空間みたいなことを変えたいという思いがすごくあったんじゃないかと思います。

豊嶋>>
その後、ギャラリートラックスというものをプロデュースしていく方向に向かうのも、そういうモチベーションじゃないかとおっしゃってましてけれども、そこでの企画も基本的に二郎さんがアーティストのラインナップなどもやっていたのですか?

角田>>
そうです。今年はもうこういう感じやで、とか、これからはこういう感じにしたいとか。
いつも遊びみたいな延長でやっていたので。

豊嶋>>
建物そのものも保育所だったんですよね?

角田>>
幼稚園です、いまギャラリーになっているところは、園のみんな集まる場所だったと思うので。

豊嶋>>
建物そのものもひとつの作品というか。

角田>>
そうですね、何度も何度も生きてる間は毎年のようにいじってましたから。窓をつけたり取ったり、壁にしたり、凝りだすとすぐ凝っちゃうひとなので、土壁やりだしたらものすごい土壁のことやりだして、土壁職人をちょっとわざと見にいったりとか、なんでもできちゃうタイプであると思いますね。

豊嶋>>
1階の会場では、映像作品も展示していますが、映像もずっと作り続けていたんですか?

角田>>
それはですね、僕は二郎さんの学生時代は知らないんですけれども、映像に関しては、大学を辞められた後に、一時期映画監督になりたくて、映画の助監督をやってたので、映像に凄く興味があるということは前に言ってたんですね。
それで、90年代の終わりくらいから、コンピューター、パソコンで自分で映像編集ができるようになるじゃないですか。僕が最初これはいいぞっと思って、二郎さんに「知ってる?最近もうMacで映像編集できるようになったんだよ。」っていったら、「ほんとかー!」ていって、悦子さんにもすぐ、じゃカメラを買って何とかって、もう亡くなる年はもうほとんど映像しかやってなかったと思います。

豊嶋>>
プライウッドで、上には円形のジオメトリの作品を展示していますけれども、初期というか農機具の作品からすると、単純にビジュアル的にはかけ離れたものだと思うんですけれども、その辺の発想、創るものの転換はどういったいきさつがあったんでしょうか。

角田>>
あれはある程度、僕が思うには、技術が追いついてきたわけです。僕自身家具を作ったりその道具を使ったりしないのでよく分らないんですけれども、多分、見ていると、だんだん、椅子を作るにしても前は積み合わせていたのが、そのうちどんどん細かいこともできるようになって、きれいに円を作れるようになってとか、そういうのとなんか関係あるんじゃないかなと思って。豊嶋さんがさっきお話されたように、最後の作品に関しては、あれはたぶん二郎さんが今まではどちらかというと、素材にインスパイヤーされて形作るみたいなこと、そこから組み合わせていくというコラージュみたいな手法だったと思うんですけれども、それは円形くらいの家具になってくると、最終的には、頭の中で構築していった形にするという出し方をしていたので、その辺からある種、がらっと変わったところがあって、それを最初から目指してたはずなんですけれども、最初は多分技術がなくてできなかったのが、できるようになっていったのが大きい要因じゃないかなあと思います。塗りもきれいになって、だんだんそういうのが凄いなと思うようになっていっていたので。

豊嶋>>

机と椅子がなんかシステム家具というか。基本的に一枚のコンパネから作るという感じなのですか?

角田>>
そうみたいですね。僕は分らないんですけれども、二郎さんの中では、多分スパイラルになっているというのは意味があるとはおっしゃってましたね。

豊嶋>>
なんかね、僕ほんとに展示のときにほとんどはじめて、一堂に集まった作品を、実物をみたんです。最初はこれくらいのボリュームでこういった作品がありますよという写真だけを見せていただいてたんですけれども、白い床に敷いた紙、あれは養生シートなんですけれども、あれは二郎さんがトラックスの展示なんかでもたまに使っていた素材ですというので、じゃそれを引き継ごうということで使っていますが、

角田>>
二郎さんっぽいですよ、ああいうラフな感じというか。ただでもすごい細かいですよね、豊嶋さんの展示も(笑)。

豊嶋>>
そう。クロスっていう象徴的なモチーフも二郎さんの中ではあったので、それが宗教的な意味合いとかではなくて、何かと何かが交差するような場所という意味合いが出てきて、ただ、クロスする場所に展示するというよりは、倉庫から引っ張り出してみたというような感じで、塊としてひとつの展示というか、一個一個この家具のここの作りはこうだねということではなくて、なにかひとつのものとしてできたらいいなあと思ったんですけれども。
それでね、展示しているときに、二郎さんのアシスタントをしてらっしゃった方と一緒に作業をしていたら没頭してきて、こう作品を並べていくんですけれど、誰がどう並べてもこれ全部決まってくるぞみたいな感じにだんだんなってきて、こう、、、磁石で物がひっついていくようなそういう錯覚がだんだん生まれてきたんです。だからお話を聞いていると、あの展示は、全部時代順でもないし、その時々の素材別でもないし、ただなんか分らない因果みたいなものでああいう展示になっていったんですけれども、それもあながち間違ってはないのかなと。

角田>>
ぜんぜん間違ってないです、僕は見た瞬間新鮮に見えましたね。

豊嶋>>
それでね、オカルトではないですけれども、展示をやっているときに、僕がこうこっちでお願いします、とか、こっちとこっちを入れ替えてくださいとかレイアウトをどんどん決めていっていたんですけれども、ここにこれをこう置いて次ここ置きます、とかやっているうちに、なんか分らないんですけれども、二郎さんとチェスをしているような感じになってきて。

(ああ、おまえ、そこにそれ置く?)

みたいな感じで、

(そしたら、、じゃあなんか、やっぱりこっちにしようかな、、)

みたいな。

(こうします)

っていったら、

(ああ、そうするんやったら、じゃこれは、、、ここに置こうかな。)

みたいな。そのときその瞬間、没頭していたからですけれど、そういう「知らない二郎さん」とそういう対話があったような気は凄くあったんです。

角田>>
それは多分、二郎さんもそういうことを望んでいたと思いますね。会ったことないひとが、いろいろこうやってて欲しいと、亡くなる前も随分言っていたので。

豊嶋>>
そうなんですか。今回本当に知らなさ過ぎて。
二郎さんに興味もあって、トラックスの展覧会に訪ねていってそこで今回の展示も声をかけていただいたんですけれども、(本当に知らなさ過ぎるんですけど本当に僕でいいんですか)って聞いたんですけれども、それくらい皆思い入れが強すぎるから客観視していクールにやってくれる方にやってもらったほうがいいですっていってくださったので、じゃあもうこれは巻き込まれてみるかという感じだったんです、結果としては展示作業も楽しめようになったんですけど。

角田>>
多分、今、豊嶋さんが、チェスみたいなっていいましたけど、二郎さん自体が割とそういう人で、そんなに話をしないんですね。僕も長くはずっと付き合ってたんですけど、一緒にいても「二郎さん、○△◇だね。」「そうだね」っていうくらいで、なんとかかんとかみたいなのはなくて、いるだけで「これでいいな」みたいな感じだったんですよ。今のお話を聞いていると二郎さんみたいだなと思ったんですけど。
亡くなってしまった人なので、僕の中で、ますます記憶が薄れていくし、二郎さんのことをあんまり考えるのはよそうと思うんですけれども、家具見ると、新鮮にいつもああいいなあと思えるんです、それはいつも凄いなあと思いますね。

豊嶋>>
僕は大阪出身で、いまは東京ベースで動いてたりしていますが、二郎さんが八ヶ岳にきた経緯というのがあったと思うんですけれども、なんかそこにどういう意識の流れがあって、そういう考えていたアイデアなりスピリットは受け継がれていくもんだろうと思っていて、なんかそのひとつの流れみたいなものになんかひょんなところで、スポッとは入ったみないな感じを凄く感じたんですけれども。

角田>>
面白いのは、二郎さんが亡くなってからもギャラリートラックスで展覧会をやっていて、海外の写真家とかアンダースさんとか、そういう人たちも、じつは二郎さんとは会って無いんですね。

豊嶋>>
ああそうなんですか。

角田>>
僕の事務所に来て家具に凄く感動して、これは誰が作ったのっていって、これ山梨にこういう人がいるんだよって話すと、そこへ行きたい行きたいっていって、ギャラリートラックスに連れてくるとその空間が凄くいい、気持ちいい、ここでやりたいと言い出して、やってもらったり・・。空間が人を呼んでいるなと、僕は凄く思っています。多分豊嶋さんもそれに引っかかってね、なんか来ちゃったみたいな。

豊嶋>>
そう、来ちゃって、座っちゃってるんですけど、、(笑)
そうなんですよ、だから、ほんとうに(今回の展示は)プレッシャーだったし、超アウェイじゃないですか(笑)。

角田>>
なんか、合う人じゃないとそういうのしないはずなんですよね、作っているものが。豊嶋さんが青森で奈良美幸さんとものすごいの作ってましたよね、それを二郎さんのアシスタントやっていたひでくんと見に行ったんですけど、これ凄いねー、二郎さん見たら喜んだだろうねってという話を散々していて、そういうひとが今ここでやってくれているのをみると、ものすごい不思議な感じがしますね。
以前、悦子さんに「豊嶋さんだったらいいと思うよ」って僕がいうと、「そんな頼めないよー、そんなすごいひとに。」っていっていたのが、「本当に豊嶋さんが来たの!」って。

豊嶋>>
自分から来たんですよね、僕が(笑)
なんか分らないですけれども、三日前からこちらに来ていろいろ用意してくださって、アレンジしていく作業だったんですけど、自分としては本当に不思議な出会いになって、もう亡くなられているので実際に本人にはお会いすることはできない出会いみたいな感じがあります。それが、僕も今回は知らないってことで割り切ろうっていうふうなこともあったので、いろいろ資料を調べてみたりとかせず、角田さんとも以前にお会いはしているんですけれども、こんな感じで事前に、きょう朝も打合せもなしで来ているんですけれど、凄い不思議な出会いになっています。

角田>>
見ていると、そういう人が多いような気がします。多分今回いろいろ関わってくださる方がたの中とか、きょうここに来てくださっている方とか、会ったことがない方もいらっしゃると思います。でもやっぱりあの家具とか作られたオブジェをみると、そういうものが対話してるって感じが凄くするのです。

豊嶋>>
そうですね。なんか、生活そのものというか、全部が全部その二郎ワールドじゃないですけれども、どこまでが創作活動で、どこまでが創作活動じゃなくて、どこからが仕事で、どこまでが遊びで、区別が無い感じで。

角田>>
僕の印象だと全部遊びみたいなところがありますよね。だから、農家に住みだした当時も、家に遊びにいくと、面白いって、家の中でテント張って寝てたりとか、そういうのが作るものに変換していったりとか、全部そういう発想で。だから展示してある丸いテーブル椅子も、こういうのあったらいいなという自分のために作っていったのが、人がいいっていうようになった、そういう形になっていったんだろうなと思うんです。

豊嶋>>
そういうのは、オンとオフを分けてないというか、結局はほんとの意味でのライフスタイル、インテリアとかこういう形とかではなくて、ほんとの生き方というライフスタイルそのものが作品化、そのものが作品であった、みたいなイメージを受けるんです。

角田>>
それは、僕も凄くそう思います。逆に言うと、僕の場合は二郎さんが家具を作る前から知り合っていたので、そんなに凄く見えないというか。友達がね、たまたまやりだしたので、へーっ、これいいね、というふうな感じだったので、逆に、豊嶋さんの立場みたいに、離れて二郎さんの作品を見てみたいという気がします。全然知らないで突然出来上がってるのを見たらどういう風なんだろうと。知っていると、あぁっていうその記憶が出てきてしまうので、まったく知らずに見たらさぞかしびっくりしてるのかなあとかね。

豊嶋>>
いや、びっくりしましたよ。

角田>>
きょうその辺も豊嶋さんに聞いてみたいなあと思っていたんですよ。

豊嶋>>
僕は、graf(グラフ)というチームで大阪をベースに活動しているんですけれども、僕自身は家具職人ではないので、家具を作ることは無いんですけれども、メンバーと一緒にどういう家具がいいんだろうとか、家具を含めてアートとか食べることとか全体としていろいろ考えていたんですけれども、二郎さんの家具を見たときに、その「機能」ってところを超越しているところがあって、でも単なる大雑把かっていうとそうじゃなくて、すっごく緻密。

角田>>
そう細かいんですよ。

豊嶋>>
細かい緻密な作業の上に、そういうバクっとしたものが出てきているという感じがあって、あの、それが彫刻的というか、もっとむしろ絵画的と思ったんですけど、彫刻ってある程度こういうのを作ろうという方向性を建築も作っていくと思うんですけれども、絵は、塗り重ねていって最後どこへ行くか分らないところがあるじゃないですか。これで完成と自分の思うところで終わるのが完成だと思うんです。二郎さんの家具は、そういうどこにいくか分からないところでやってきて、ここでやめた、みたいなそういう雰囲気があるなあと思ったんです。

角田>>
よく言っていたのは、途中作っているのを見ていて、ああ凄くいいと思って、次の日行ってみると今度変わっているわけです。ちょっと too muchかなと思うと、二郎さんも「ちょっとやりすぎた」とか「前のほうがよかった」とかいって。その生ものみたいにして扱っている感じがすごくしていたので、さっきも豊嶋さんがおっしゃっていたんですが、家具とかカテゴライズされるのを本人は凄く嫌がっていたので、いや自分は別に家具作っているわけじゃない、なんとかしてるわけではなくて、その食べることも遊ぶことも、全部一緒に考えてるみたいなところがあるので、八ヶ岳へ越したら八ヶ岳を楽しもうみたいな、そこの中で発見のあるものを形にしたりとかいうことだと思うんです。

豊嶋>>

そういう形でトラックスというギャラリーが始まって、いろんなアーティストをほぼプロデュースといってもいいくらいの作家さんも沢山おられたと思うんですけれども、次の世代というか、そういう関わりをしていった人たちと二郎さんと、どういう付き合い、どういう風に見て、どういう影響を受けてやっていたんでしょうか。

角田>>
みんなまず、いい人って言ってましたね(笑)。すごい穏やかな人なんですよね、ぱっと見は。静かなひとで。ただ考えていることは凄くパンクなところがあって、だからむしろ歳が近い人よりも離れた人のほうが凄く共感する。僕も13歳くらい違うんですが、そういう下の人のことを面白い面白いっていっていて、自分のお父さんくらいの年のひとなのに、ぜんぜんパンクなひとだとかね。聞いてる音楽とかもオルタナティブばっかり聴いているとか、僕からしてもその年齢の人にしては珍しいタイプでした。ただそういうところはとくに表立ってなく普通にいるときは普通にしていた感じだったので、みんな二郎さんかっこいいかっこいいって、若い子が憧れるようなところはありましたね。
僕はちょっと近いので、憧れるというよりは、あんなふうに生活できたらいいなって感じだったんですけれど、若い人からすると、生き方がかっこいいという。それはその人たちから聞いて僕もああそうだよねって。好きに生きてるしねって思いました。

豊嶋>>
ギャラリーでの展覧会のときも、ここをこうしろとかああだこうだなどという会話ではなくて、なんとなくこう・・。

角田>>
そうですね、黙ってやってっちゃう。例えば、僕が絵を展示してると、黙ってオブジェを置いてあったり、絵をかけてるとこうだよああだよとはいわないで、後で見に行くと、あれ?場所変わってるって(笑)。そっちのほうがいいかなと思って。あんまり口で何とかいったりする印象は無いですね。どちらかというと口下手な印象があって、それよりもやってる姿とか遊んでる姿とか、そういう感じがしていました。
それを、いまいなくなってから家具を見ると同じような感じがあるので、生きてても亡くなってもそれは変わんないんじゃないかなあと思いますね。

豊嶋>>
僕も、トラックスのトイレの塗りが凄く気になっていて、、。

角田>>
あそこはかなり細かくやっていましたね。

豊嶋>>
トイレに入っていると、ぼっと作品を観てる状態になってしまう。あっトイレしてたんや、って思い出してしまう感じが、きょうの朝とかもあったんですけれども(笑)。
平面とか立体とか家具とか戸口とかもあんまり関係ないくらいに、本当の全体、ひとつの時間とか空間みたいなそのものを一生懸命作ってたのかなあと思いますが。

角田>>
そういう感じは凄くします。だから、変な話なんですけれども、911事件以降、二郎さんが変わった感じ、社会性がでてきちゃったみたいな。それまでは、世の中のことに興味ないみたいな感じだったのが、憂うというか、もう世界は駄目だとか、その辺からシリアスにものづくりとかになっていったんですけれども、後で考えると、体調との関係もあったのかなあという気はします。ある時は、二郎さんに会いにいくと、ビンラディンの格好をしてるんですよ、悦子さんにビンラディンの格好を描かして。そういうところがパンク精神というか、それをなにかビデオで訴えなあかん、訴えるやつを作ろうみたいな。

豊嶋>>
それはそれで見たかったですね、ビンラディン・ビデオ。

角田>>
ビンラディンの格好をして写真を撮っていたりそこは、逆にチャーミングというか、よくこんなおっさんがやってるぞみたいな、こんなかっこしてるよみたいな。

豊嶋>>
実際、トラックスを中心にベースを移して、20年くらい活動をして、結構、変なおっさんじゃないですか(笑)。

角田>>
かなり(笑)。

豊嶋>>
いきなり山梨の田んぼの真ん中にそんな人が現れて、でも別に排除されるとか対立するわけでもない、その辺が浸透して理解されていったと思うんですけど。

角田>>
誰とでも仲良く打ち解けていくひとだったので、そういう意味では皆に慕われているところがあるので、それは人柄のせいかなと思います。ただ、まあ普通に見ると変な人ですよね、子供みたいな感じというか。

豊嶋>>
それが実は不思議っていうか、排除されていてもおかしくないような感じはすごくあるんですけれども、それがそうならないっていうのがやっぱり。

角田>>
それは僕も一回二郎さんに聞いたことがあるんです、二郎さんやっぱり変だよね、って。自分は団塊の世代という戦後の生まれで、そのときには大阪時代に通ってい小学校のたクラスも、一学年何十人、何十クラスもあったけれども、変なやつがいても、昔は変な人が一杯いたから、変なやつがいても許されたんだっていってましたよね。今は大変だなと。

豊嶋>>
実際ここに地元の方もおられると思うんですけれど、、やっぱり変だったと思いますよ(笑)

角田>>
一見そう見られるんですけど、一見紳士に見える、外見的には。

豊嶋>>
外見的には(笑)

角田>>
でも実際は変な人(笑)

豊嶋>>
なるほどね。変な、というと一言で済んでしまうんですが、そこに本人は絶対にいわなかったと思うんですけど、生き様みたいなもの、ある種のメッセージ性みたいなものがあったから逆にそういうのを周りが感じ取ってたのかもしれないし、僕らもあって、巻き込まれてみようみたいな反応をしてるというのもそういうことなのかなと思うんですけど。

角田>>
ある意味、僕らは二郎さんを生涯終わりまで見ていて、亡くなるまでに話したり聞いたときに、やっぱり自分では好きにやってこれて、自分の思うものを守ってこれたのがよかった、てことは言ってましたね。いろんなことにぶれないで作ることにいろんな動機がはいらずにただ作ることができて、住みたいところに住んで、そうやって生涯送れたのは凄くラッキーだったと。

豊嶋>>
そうですよね、「普通」と「変」じゃないですけれど、なかなかやっぱりやりたいけどやれないですよね。好きなことやりたいんだけど好きなことやれないとか。好きなことやるためにこっちをやったらこれが忙しくて結局こっちができないとか。それを一致させるのは凄いレベルの高い話やなあと思いますね。

角田>>
確かに金銭的経済的には大変な時期も長くあって、大変やっていってるんですけど、嫌なことはやりたくないといつも言ってたので、家具も発注が多すぎると嫌がって「俺、家具作らん」とかいって(笑)。それが許されたっていうのは、人柄のせいもあるし、作っているものが質というかそれが大きかったので、それを正直に自分でやってたのが周りの人から見ると凄いということだと思います。ああいうひとがあんな風でやっていけるんだというのが励みになったと思いますね。

豊嶋>>
そうですね。ぼくとかが言うと失礼なんですけれども、この方法があるんだっていう、これありなんだという。

角田>>
そうなんです。

豊嶋>>
これありなんだっていうか。勇気付けられるというか。

角田>>
亡くなったときに、一番ショックだったのは、そういう上の人がいなくなった、これでいいんだと思えてた人がいなくなると不安になるじゃないですか。それは二郎さんを見ていて本当に勇気付けられましたね。年下から見ていると、あっ、あれでもいいんだ。なんとかなるかもしれないという、期待というか、好きなことをやる手順、あれでもいいんだっていう。

豊嶋>>
なんか、この何日間、トラックスを中心にここに滞在しているだけで、風景も含めてみているだけでもうその空気感みたいなものができてきている、八ヶ岳を見たり、南アルプスを眺めたり、ギャラリーの前の田んぼをみてたらトンボが飛んでたり、なんかその風景そのものが絶対二郎さんが作ったものではないんだけれども、だけどそういうのも含めて、そこにボーっとたたずんでいる時間を含めて、全部世界がひとつになった、それをみているみたいな。

角田>>
二郎さんがこの土地に来たっていうのは、結果的に考えると、ここを選んだっていうのは凄くよかったんだと思いますね。やっぱり自分にフィットしていたんじゃないかな。いろんなもの、興味のあるものがいっぱいあって、二郎さんにとって田舎にきたというよりも凄く面白いところにきた、っていうことはあったはずなので。

豊嶋>>
いまよく田舎暮らしとか、UターンとかIターンとかありますけど、なんかまたそういうのとは違う、よく分らない切り込み方ですよね。

角田>>
多分、その、ものを見るときの見方があんまり常識に縛られていない、なんでもしていたので、そこが二郎さんの凄い魅力的なところで、まっすぐ見てないで、例えばこっちからも見てるとか、こういう風に見たらこうだよとかね。そういう多面的にみることが凄くできた人だと思います。それで周りからは器用にみえたところもあるんですけれど。あのものの見方が独特というか、自分のものの見方がはっきりしていたひとだと思います、だから二郎さんがやりだすと何でも変わってちゃう。

豊嶋>>
なんでもそこにすでにあるものなわけですよね、それを僕らが普通に道を歩いていたら気づかないものが、急に作品のようになっていくというような話なので。

角田>>
そういう意味では、居そういない人なんじゃないかと思いますね。僕、建築の方とか随分お会いしたりするんですけれども、ああいう面白い変なおじさんってあんまりいないので、そう意味であとで考えると貴重なあんまりいない人なんだなと思いますね。


** 出演予定でしたアンダース・エドストローム氏は、当日の体調不良のため急遽欠席となりました。

豊嶋秀樹氏(左)
×角田純氏(右)
Jun Tsunoda
角田純
アーティスト。1960年愛知県生まれ。多摩美術大学卒業。
グラフィックデザイナー角田純一として活躍しながら、20年以上にわたってライフワークとして絵を描き続ける。
主な個展にGALLERY TRAX(04年)、FOIL GALLERY(08年、09年)、主なグループ展にCultural ties Exhibition Westzone gallery space・ロンドン(00年)など。最新の作品集『Cave』(2009年)。
二郎氏とは無二の親友。
Hideki Toyoshima
豊嶋秀樹
1971年大阪生まれ。1993年サンフランシスコ・アート・インス ティチュート卒業。
2001年チェルシー・カレッジ・オブ・アート・デザイン修了。
grafの設立メンバーの一人で、2009年9月以降は gmprojectsとして活動開始。
奈良美智とのコラボレーション、YNGの中心的人物でありA to Z projectを共同企画・制作した。
最近では、「夢の饗宴:歴史を彩 るメニュー×現代アーティストたち」展(資生堂ギャラリー)、
「もうひとつの森へ」展(メルシャン軽井沢美術館)での空間構成、
KITA!!Japanese Artists meet Indonesia(インドネシア/国際交流基金)で
キュレー ターを務めるなど、様々な立場で展覧会をつくっている。
今回の+Re_JIRO展の空間プロデュースを手がける。